戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)
8月9日朝、火工廠連絡将校の鈴木弓俊少佐は耐酸材料に関する調査のために撫順にいた。ラジオでソ連参戦を知り、空襲警報の鳴る中駅へ急いだ。火工廠に帰着すると林光道廠長から、命令受領のため新京の関東軍総司令部へ行くよう命じられた。往きの列車は順調で一等車の個室でゆったりできた。
新京駅に着き総司令部に直行したが、建物は白い煙に覆われていた。庭で大量の書類を燃やしているのだ。部屋には人影がなかった。参謀室の扉を開けると1人の将校がウイスキーを傾けていた。命令受領を求めたが要領を得ない。諦めて総司令部を出て駅に向かった。駅は避難する軍人の家族でごった返している。やっと大連行きの列車に乗ることができ、通常の数倍時間をかけて遼陽に戻った。
総司令部の模様を林廠長に報告すると、今度は奉天の第三方面軍司令部へ行くよう指示される。鈴木少佐は息つくひまもなく和泉正一中尉とともに奉天へ向かった。司令部では司令官の後宮(うしろく)淳大将に面会できた。鈴木、和泉両名が、火工廠防空強化のため高射砲の増設を具申したが「その余裕はない」と断られた。
鈴木少佐の報告を聞いた林廠長は自ら状況把握のため奉天に行く決断をした。随員は政井中尉他1名で、矢口清一輸送班長が車を運転した。奉天に着くと司令部は慌ただしい雰囲気に包まれており、書類を焼却している光景も見られた。第三方面軍司令官後宮大将から事情説明があり、「ソ連軍に対して徹底抗戦する。そのために火工廠は対戦車急造爆雷の製造を急ぐこと」との命令を受けた。
対戦車急造爆雷とは、直径30センチほどの木箱に鋳鉄の椀と黄色薬を装填し、これに柄をつけてソ連軍戦車に投げつける。うまく当たれば戦車を破壊できるというのだが、実行されないうちに日本の敗戦になった。対戦車兵器としてはほかに夕弾式急造地雷もあった。石油缶より一回り大きい爆缶を導火線の遠隔操作で爆発させる。実験では戦車のキャタピラを粉砕し、威力が実証されたがこれも使われなかった。
ソ連軍は急速度で南下していた。数日で火工廠に達する恐れがある。火工廠部隊司令部は11日、住民に対戦車用たこ壺型塹壕を掘るよう命じた。翌12は晴天の日曜日、弥生町、朝日町の人たちは吉野山の麓に集まり、家族総出で穴掘りにあたった。地盤は固い。粘土質なので水分を含めば柔らかになるのだが、乾燥しているのでスコップもツルハシも受け付けない。大変な苦労をしてやっと塹壕を完成させた。