戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

爆風(3) 17/10/14

明日へのうたより転載

 弥生町、朝日町には火工廠で働く軍属とその家族が住んでいた。陸軍軍属には傭人、雇員、判任官、高等官という階級があった。軍隊でいうと傭人、雇員は上等兵までの兵卒、判任官が軍曹、曹長などの下士官、高等官が少尉以上の将校である。

 関東軍火工廠を管轄するのは918部隊だが、戦闘部隊とは違って一般兵卒はいない。林光道少将(廠長)が部隊長で、将校、下士官が工場各部署の管理運営に当たっていた。工場の生産工程には軍属の技官(高等官)、技手(判任官)が配置され、武器弾薬製造の現場を監督した。工員、事務員、守衛などの一般従業員も軍属(傭人、雇員)で、工場にはそのほか満人傭工と呼ばれる中国人労働者が働いていた。

 官舎はそれぞれの身分、階級によって分けられ、軍属の場合は朝日町が雇員、弥生町が判任官で高等官は曙町となっていた。朝日町は吉野山の麓のなだらかな傾斜地にあった。西側に国民学校と病院、南東の方角に火工廠工場の高い塀が見えた。煉瓦づくりの平屋で、焼打ちや火災の類焼に備えて敷地が広い。玄関の引き戸を開けると靴脱ぎ場と2畳の小上がり、南向きの6畳間が2部屋並び、北側は4畳半の座敷と台所と風呂場。厳寒に耐えられるよう頑丈な二重窓で各部屋に暖房用スチームが通っていた。

 私の一家はこの朝日町の官舎に住んでいた。父は陸軍軍属で身分は雇員、火工廠の職場は庶務科警戒。つまり工場の守衛だった。父戸塚陽太郎は1906年(明治39年)生まれの39歳。出生地は茨城県結城郡菅原村大字大生郷133番地(現常総市大生郷町)。30年(昭和5年)に09年生まれの母せんと結婚して上京、北区王子にあった陸軍造兵廠に就職。33年に姉和子、37年に私章介が生まれた。

 私が生まれた年に日中戦争が始まる。戦争遂行のためには武器弾薬の補給が必須条件だ。大規模な製造工場の建設が急務とされ、陸軍造兵廠直轄工場として関東軍火工廠が開設された。場所は満鉄の遼陽駅から20キロほどのところで、工場、住宅、付属施設などの敷地は約1,000万坪(3,300万㎡)。敷地内に山あり川あり満人部落ありで、満人の耕作地も含まれていた。

 関東軍はこれらの土地を現地農民から有無を言わさず取り上げた。現在の沖縄における米軍基地と同じである。ここに関東軍918部隊の将校、軍属、それらの家族など1万人の日本人町が形成されたのである。