戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)
朝になりギラギラした太陽が照りつけてくる。貨車なので窓がない。室温はどんどん上り、気分の悪くなる乗客のうめき声がする。病人が出ても手当のしようがない。ただ耐えるのみだ。新京から一昼夜かかって11日の夜10時に奉天に着いた。
井上技手は奉天で鞍山行きの客車に乗り替えることができた。これで遼陽へは行ける。しかし遼陽に着いても東京陵までの交通手段が不明だ。一つ手前の張台子からなら歩くのが可能だ。そう考えて張台子で下車、漆黒の満人部落に入っていった。小高い山があった。ここで関東軍が抵抗線を引くらしく兵士たちが陣地を構築していた。満人部落では深夜だというのに男たちが何事か話し合っている。そのそばをびくびくしながら通り抜ける。東の空が明るくなる頃やっと東京陵に着きほっと胸を撫で下ろした。
勤労奉仕学徒(勤奉学徒)として火工廠に派遣されていた奉天工大生の伊藤信は、8月12日、部隊本部前の広場に集合を命じられた。そこで林廠長から「勤奉学徒も部隊とともに行動をとり、最後までソ連軍に抵抗する。各自覚悟を決めよ」と訓示された。
8月9日朝、東京陵第一工場の西村秀夫中尉が官舎で目を覚ますと近くでサイレンが鳴っている。急いで身支度をして部隊司令部に顔を出した。既に多くの将校がいて、彼らからソ連軍参戦の報を聞かされた。壁に掛けられた満州の大地図には、堤防を突き破った洪水のようなソ連軍の進攻ぶりが矢印で示されていた。国境を固めていたはずの関東軍は無抵抗だったようだ。
その場で火工廠防衛の作戦会議が始まる。林部隊長から「既に掘られているたこ壺塹壕に潜んで敵戦車を待つ。迫ってきたら爆薬を抱えて突入する。1台でも多くの戦車を破砕し、もし生き残ったら陣地中央の高台に結集して玉砕戦法で戦う」との訓示。西村中尉はこの玉砕戦法に違和感を覚えた。
西村中尉の妻は間もなく初めての子を出産する。「家族を朝鮮に疎開させる列車が出る」という情報が広がっていた。西村中尉は妻を疎開させることを考えたが《朝鮮までの鉄道はソ連軍の脅威に晒されている、そもそも朝鮮そのものが安全かどうか分からない》と思いなおし、しばらくこちらで様子を見ることにする。同じような迷いを持つ家族が寄り集まってこれからの事態に対処することになった。