戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

爆風(12) 17/11/12

明日へのうたより転載

 工事部工手班の岡田栄吉工員長は、集合通知を受けて自転車で酒保前の広場に向かった。家族と別れて自宅を出る前に酒をコップで飲んだ。岡田は考えれば考えるほど今回の全員捕虜、シベリア行きは理不尽に思えた。《なんで一工員の俺まで引っ張られなければならないんだ》次第に怒りが込み上げてきた。

 岡田工員長は優秀なとび職で、工場建設にはなくてはならない存在だった。元は王子の造兵廠で工場設備の組み立て、重量物の運搬などに従事していた。関東軍火工廠を立ち上げるとき、最高責任者の植松達巳大佐が無理をいって王子からもらい受けて満州に連れてきたといわれる。とにかく仕事は素早やかった。工事現場では地下足袋ならぬ防寒靴(ドタ靴)で、わずか15センチの勾配のある棟木の上を猿のように歩き回る。また高さ10メートルの鉄骨の上を地上のように渡り歩くこともあった。

 広場の群衆の中で突然大声が響き、周りのガヤガヤが静まる。声の主は岡田栄吉工員長だった。「このザマは何だ。普段威張っていた将校は何をしているんだ。このままみんなをシベリアへ遣るつもりか。この混乱を放っておくのか。威張っていた将校は何もできないのか」。この怒声に触発されて「そうだ。残された家族を見殺しにするのか」「部隊長はソ連に掛け合うべきだ」などの声が広場を覆った。

 岡田工員長は将校非難の演説を終えると自転車を押して広場から姿を消した。自宅に戻ると家族は出かけて留守だ。彼は自宅に火を放ち玄関前の空き地で切腹した上、酒に混ぜた青酸カリを飲んで果てた。長年岡田と仕事をしていた技手の武井覚一は「翌朝彼の死を知らされて焼け跡に行ってみますと、遺骸がまだ片付けられないでそのままありました。惜しい人を亡くした思いで胸が一杯になりました。岡田君は混乱の犠牲、敗戦の犠牲になったのです」と後年述懐している。

 騒然とする群衆を壇上から見ていた林部隊長は、このまま全員を率いて遼陽へ向かうことは不可能だと悟った。《遼陽に駐在しているソ連軍司令官に直接会って、集結命令の留保を嘆願するしかない》。林部隊長は庶務科自動車班の鈴木太一を呼び、随行者数名と遼陽へ向けて出発した。

 遼陽に着き、ソ連軍司令部のある旧関東軍憲兵隊の建物に行ったが司令官は奉天に行っていて不在だった。じりじりしながら小一時間待ったが司令官は帰着せず面会は果たせなかった。何の成果もなく手ぶらで東京陵へ引き返すしかない。その時点でソ連軍指定時間の集結は不可能になった。