戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

原寿雄さんの死を悼みながら 17/12/9

明日へのうたより転載

 元共同通信の原寿雄さんが92歳で亡くなった。『赤旗』が7日付の社会面(死亡欄)で報じ、9日付の「潮流」で追悼の言葉を贈っている。「亡くなるまで、ジャーナリズムのあり方や表現の自由の大切さを語っていた原さん。その熱いメッセージから学んだ記者は多い。ジャーナリストは自由の消費者ではない。自由の生産者、構築者たれ」。原さんが労働運動家としても優れていたのはあまり知られていない。

 おれは茨城の高校を出て、1956年に毎日新聞東京本社印刷局に入社した。1年の試用期間を過ぎて組合員になるとすぐ職場新聞を発行。それが認められて58年に青年部書記、59年には新聞労連東京地連青婦協議長に選出された。その時新聞労連副委員長・東京地連委員長をしていたのが原寿雄さんだ。

 60年安保最盛期には新聞労連も連日500~1000人の動員をしたが、始めの頃はちょぼちょぼだった。原委員長の後に労連旗を持ったおれしかいないなんてこともあった。「なんだブル新しっかりしろ」などと野次られたりした。それでも原さんは毅然として前を向いて行進していた。

 60年は安保とともに三池闘争もたたかわれた。原さんは総評の常駐オルグとして現地闘争本部に派遣された。総評は5月27日から30日まで全国からオルグ団を結集、東京地連も8人を現地に送り込んだ。おれはその一員だったが、ホッパー前でデモを指揮する原委員長を誇らしく思ったものだ。

 安保も三池もたたかいが終結した61年7月、新聞労連東京地連定期総会でおれは書記長になった。委員長は4期目の原さん。当時新聞労連書記局は京橋にあった。非専従書記長のおれは有楽町駅前の毎日新聞社から歩いて通った。原さんは労連副委員長の仕事が主なので地連関係はおれに任された形だった。

 役選の難航のため開催の遅れた62年11月の労連大会で原さんは専従を降り共同通信の職場に戻った。同時に東京地連委員長も退任したのだが、最後の議案書づくりでアクシデントがあった。原さんとおれで分担してつくった議案書の原稿を印刷屋が紛失してしまったというのだ。

 さあ大変。今日中に原稿を書かないと定期総会に間に合わない。原さんは原稿用紙を広げて資料も見ずに書き出した。その早いこと。最初のより幾分分量は減ったが一応形を成して印刷屋に渡した。おれにとっては懐かしい思い出である。――数年新聞労連主催で前原さんの講演会があって、終わってから挨拶したらちゃんとおれを覚えていてくれた。嬉しかった。原さんのご冥福をお祈りします。