戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)
会見室には主席の浜本大尉のみが入った。机の対角に司令官、両脇に自動小銃を構えたソ連兵が。通訳の菅野軍曹がやや離れて立つ。浜本大尉は微動だにせず司令官と対峙した。菅野軍曹が目配せをする。浜本は先ほどの打合せ通りの口上を堂々と延べ、最後に「もし私の願いを聞き入れていただけないなら、私はもちろん、待っている3人もこの建物の玄関でハラキリをします」と付け加えた。
菅野薫層がどのような通訳をしたのか分からないが、会見の決着はあっけなくついた。「分かった。非戦闘員のみならず、軍人の集結も免除する。工場には後刻わが軍も守備隊を出すが、当面は日本人で工場保全に全力を挙げて欲しい。ハラキリ前に早く帰れ」。司令官はそれだけ言うとさっさと退室した。
事態の好転を知らされた鈴木弓俊少佐は、すぐさま国民学校に電話することにした。導火線の火付け役の柳尚雄少尉を呼び出すためだ。電話は職員室にあるが、混乱していて誰も出ない恐れがある。鈴木は神に祈る気持ちで通話音を数えた。「はい、こちら桜ヶ丘国民学校です」。若い女性の声がてきぱき応対し、待つほどのこともなく柳小尉が電話に出た。「こちらの談判がうまくいった。すぐ帰るから導火線への点火だけは何としても阻止してほしい」。「了解しました。自分の命に換えても阻止します」。
柳少尉は、林部隊長を囲んで集まっている玄関脇の教室に戻った。吹野信平少佐に耳打ちする。吹野は部隊長の正面に正座し「閣下、浜本大尉以下が遼陽のソ連軍司令部に行き、男子全員の連行免除を約束させました。軍使一行が帰着するまでしはし点火をお待ちください」と嘆願した。しかし部隊長は「そんなものソ連の策略に決まっておる。誰が信用するか」と頭から受け付けない。
まだ午前0時には間があるのに、林部隊長が立ちあがった。《ここで手間取ってソ連軍がやってきたらどうする。生き恥を晒すことになる》そう思った部隊長は「柳少尉、即座に点火せよ」と命じた。柳は坐したまま「閣下、しばらくお待ちください。妻子をこの場に送りこんでソ連軍に直訴しに行った浜本大尉の意を汲んでください。大尉が帰るまで私は点火しません」と決死の思いで命令を拒否した。
部隊長はかっと目を見開き「柳、臆したのか。貴様はそれでも軍人か。4時間も前に出発したというのに今だに帰らない。浜本大尉らは殺されたか、逮捕されたに違いない。ソ連軍が行動を起こせばもうすぐ到着する時刻だ。それが着様には分からんのか」と軍刀に手をかけた。