戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

爆風(25) 17/12/17

明日へのうたより転載

 「柳中尉がやらないならお前がやれ」林部隊長は稲月光中尉を指差した。稲月も動かない。「俺の命令が聞けないのか。お前らを斬る」と抜刀する。そぱにいた吹野少佐、政井中尉、石部中尉、長友中尉らが一斉に駆け寄って刀を押さえる。他の将校は柳、稲月を囲んで部隊長から遮った。

 吹野少佐が「浜本大尉の帰着まで待つわけにはまいりませんか」と懇願したが、「交渉成立なんぞ嘘に決まっておる。彼は逃亡したのだ」と言い張って聞かない。「浜本大尉のご家族はここにおられるではありませんか。大尉は自分を捨ててもこの火工廠を守る任務に忠実な男です」と吹野少佐。その気迫にさすがの部隊長も刀を納めた。しかし激高は収まらない。部隊長は柳、稲月を斬ることを諦め次の行動に出た。

 「わしは切腹する。政井中尉介錯せよ」と叫んで玄関から外に出ようとした。再び将校たちに抑えられる。ようやく正気を取り戻した部隊長は「点火を待つが、12時までだ」と時間を切った。この場は部隊長の俺が仕切る、という軍人としての最後のプライドだ。「閣下、了解です。12時になったら自分が点火します」と吹野少佐。これで部隊長のプライドは保たれたが、同時にあと10分で浜本大尉らが戻るかどうか、数千人の命のかかった賭けになった。

 ソ連軍司令官は「早く帰れ」と促したが、検問を通過する通行証は出せぬという。こんな時間に車を走らせていたら、いつソ連軍の検問に引っかかって拿捕されるか分からない。事情を説明しようにも誰もロシア語を話せない。浜本大尉ら4人は運を天に任せてオンボロトラックの荷台に身を伏せた。しかし結果的にはこのオンボロトラックが幸いした。もし消防車や軍用自動車だったりしたらきっと検問に引っかかっていたに違いない。検問は簡単にパス。故障もせずに快調に走り0時5分前、国民学校の庭に滑り込んだ。

 トラックの音を聞いて林部隊長と政井中尉が抜刀して玄関に出た。ソ連軍かも知れない。そこへ「交渉成立」「爆死の中止を」と叫びながら川原大尉が駆けこんできた。続いた浜本大尉が抜刀した部隊長を見て前へ進み出る。「閣下、私を斬ってください。命令も受けずに勝手なことをいたしました」。それを身近で見ていた浜本夫人は後日、《本当に斬られると覚悟しました》と述懐している。

 部隊長は電灯の灯りで浜本中尉を確かめ、刀を鞘に納めた。浜本は肝心なところだけ手短かに報告。それを聞いて部隊長は吹野少佐に「態勢は維持したままとりあえず玉砕は中止する」と指示した。即座に将校会議が持たれ、混乱に乗じた満人の襲撃を防ぎ、放火された家屋の消火にあたるべく各自の持ち場に散った。伝令が校舎中を走りまわり、爆砕中止を告げた。死の絶望から解放されてほっとしている顔がある一方、早まって青酸カリを飲ませてしまったわが子を抱きしめる母親もいた。