戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

爆風(31) 17/12/27

明日へのうたより転載

 10時頃、吹野少佐夫妻がお別れを言いにきた。「一蓮托生、やあ愉快ですよ、奥さん。長友さんにはいろいろと苦労をかけました。またあの世でよろしくお願いします」。夫妻はニッコリ笑って国民学校へ向かった。

 11時、鐘の音を合図に長友一家も正装して家を出た。人々が賑やかに歩いている。死にに行く行列とは思えない。道は淡々として白く、月が人々の影を写す。幼い子どもたちはまるで遠足にでも行くように嬉しそうだ。長友いさ子は細長い影を引きながら、何物かに引き寄せられるように静かに歩いた。 

 突然「長友中尉殿の奥さん」と声がかかる。見るとリュックを背負った松藤軍曹が立っていた。「奥さん私は1人身ですから海を泳いででも、這ってでも内地へ帰ります。何かことづけることはありませんか」。松藤軍曹は佐賀県出身で唄の上手い青年だった。「ありがとう。もし無事に内地へ帰れたら、主人と私の両親に遼陽のこんなところで親子5人立派に玉砕したと伝えてください」。いさ子はそう言って懐に入れていた預金通帳や現金を渡した。「どうかこれを持って一刻も早く脱出してください」。

 学校は煌々と電灯が点き、教室や廊下に沢山の知った顔が並んでいた。浅野中尉の尺八の音が流れている。曲目は「千鳥の曲」、いさ子は心の中で琴をひき合奏した。奥さん方との別れの目礼。髪を切った方、白装束の方、それぞれに国に殉じる覚悟が見える。

 人々は配布された青酸カリのアンプルを1本ずつ手に持つ。最後のシャンパンが抜かれる。「乾杯!」の発声。いさ子は青酸カリのアンプルを歯で噛み切って湯のみの水に移した。主人の長友中尉は羊羹に青酸カリを詰めて子どもらに端から食べるよう教えている。2階では次々に幼な子が死んでいる様子。「待っておれ、すぐ行くぞ」の声が。かと思えば歌い踊るような賑やかな声もする。死を前にした狂気の光景だ。

 まだ火薬には火が点かぬ。そのうち林部隊長と将校たちの間で緊迫したやりとりがあり、突如玉砕は取り止めになった。いさ子は子どもたちの手を握って学校を後にした。あちこちで火の手が上がっており、夜空が赤い。長友家の隣の生駒大尉宅も焼けて無残な姿を晒していた。

 翌日、幼い子どもは「お母ちゃん、面白かったけど火事が怖かったね」と言って元気に遊びに出かけた。いさ子は次々と起こる事態に思考力を失っていた自分を情けなく思った。