戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)
森青年を見送った後、松野一家はありったけの缶詰を開けて最後の食事にした。言葉少なに食事を終えると、子どもたちには晴れ着を着せ揃って家を出る。あちこちで火の手が上がっている。夫人はおののきながら女の子の手を引いた。ほどなく学校に着く。尺八の音(ね)に迎えられ、友人たちの輪に入る。「一緒に死のうなあ」と湯のみに酒をなみなみと注がれた。玉砕中止に至るその後の経過は他の体験者と同じである。
後日談。「何としても日本へ帰る」と東京陵を脱出した森青年は、その後杳として行方が分からない。日本へ帰ったという痕跡もない。当時10歳の松野隆は引き揚げ後10年ほどしてアメリカ・シカゴ大学に留学し、技術者として活躍している。
本章を終えるにあたって筆者が感じたいくつかの疑問と、それに対する筆者なりの答えを記すことにする。第一は林光道少将(火工廠長・部隊長)が何故玉砕の道を選んだのか、という疑問である。
林部隊長は25日朝、ソ連軍司令部から軍人・軍属の集結命令を受けて即座に将校会議を招集する。唐戸屯組は1時、東京陵組は2時に出発し遼陽で合流、海城へ向かう、という方針を指示する。即ちこの時点ではソ連軍命令通り部下の軍人・軍属を従わせることに疑問を持たなかったと言えよう。
ところが東京陵のロータリー(酒保前広場)に集まった群衆から厳しい批判が続出した。「戦争は終わったんだ」「戦闘要員でない俺達まで連行するのか」「残された家族はどうなるのか」「部隊長は何している」「ソ連のいいなりなのか」「日頃威張っている将校はどうした」。声を挙げたのは岡田栄吉のような工場労働者だった。一応軍属とはなっているがいわば名ばかり軍属だ。広場は一種の民衆革命の様を呈した。
これは林部隊長にとって生まれて初めて見る光景だった。それまで巌のように聳えていた関東軍という権力機構が民衆の力で揺らいだのだ。部隊長は広場の声に脅かされる形で、ソ連軍司令官に嘆願に行ったが留守で会えなかった。このまま民衆の前に出たらリンチを受けるかも知れない。
恐怖にかられた部隊長が追い詰められた末に考え着いたのが「全員玉砕」だったのではないか。軍の権威を守るために死を選ぶ、というのは彼らにとってなじみやすい思考経路だ。それで己のプライドも保てる、と考えたに違いない。日本軍国主義の底の浅さが露呈したものだと筆者は思っている。