戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)
4、ソ連軍支配時代
大動乱から一夜明けた8月26日、火工廠の守備を任務としたソ連軍1ヶ小隊が鈴木弓俊中尉に誘導されて唐戸屯部隊本部に到着。軍服で正装した林部隊長以下将校の出迎えを受ける。関東軍火工廠は、この日から約3ヵ月のソ連軍支配の時代に入った。
ソ連軍の支配目的は工場設備と火薬類のソ連領への搬出であって、自ら統治するとか工場を稼働させるとかはまったく考えていない。食糧、ライフライン、治安の確保など生きて行く手段は住民自らが切り拓かなければならない。そこでそれにふさわしい廠組織の指導体制が求められた。
一連の騒動で信望の落ちた林光道廠長に替わって、吹野信平少佐と浜本宗三大尉を中心に新しい指導部が形成された。吹野、浜本はソ連軍支配下で生き延びるための基本を次のように考えていた。
《拠り所を教育勅語と終戦の詔勅とし、具体的には①火工廠は今後軍事に関与しない、平和産業を目指す②1人の飢える者も出さず、1人の贅沢も許さない③戦前の階級、職階、学歴を問わず愛情と実行力のある人物を登用する④北満からの難民受け入れに応じる》。
8月28日午前、林部隊長により新事態に備える将校会議が招集された。その場でまず激論になったのは、消防車2台を盗み出し朝鮮国境の安東を目指した40人の脱走者についてだ。これだけは看過できないので罰すべきだという意見が強く出された。最後にこの問題も含めて次のような決定事項となった。
①林光道少将を象徴的部隊長として今後も仰ぐ。
②旧軍隊組織とは別に自活自律を主眼とする民会的組織を設ける。
③東京陵、唐戸屯に自治体的町政を敷く。
④8月25日の各種出来事については安東向け脱走者も含めて何人の責も功も問わない。
⑤住民の生活維持のため、各人の能力(農耕、大工、電気技術、裁縫など)を活かして外部から収入を得る。それを一旦プールして家族数に応じて公平に分配する。
稲月光中尉は林部隊長が召集した将校会議に出る気になれず、午前中、東亜寮の自室にいた。そこへやはり会議を欠席したらしい柳尚雄中尉がふらりと現れた。大した用事がある様子もなく、しばらく話をしてまたふらりと出て行った。昼食後、稲月中尉は手持無沙汰なので同じ寮内の岡野軍医大尉の部屋に行く。そこで2人でウィスキーを飲んでいるところへ突然木山雇員が慌しく飛びこんできた。「柳中尉が吉野山でピストル自殺しました」。
2人ともすぐさま軍服に着替え、鉄条網を乗り越えて山を上った。柳中尉は吉野神社の上の窪地に軍用毛布を敷き、東を向いて正座、弾丸は眼窩を打ち破っていた。少年義勇隊員が駆り出されて死骸を東亜寮内の白塔クラブへ運ぶ。連絡を受けた将校たちが続々集まる。速成の祭壇がつくられ、お通夜になった。柳中尉に家族や親戚はいない。稲月中尉は一晩中遺体に付き添った。柳中尉の遺体は翌日、吉野山の麓で材木を組み荼毘に付された。