戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)
柳中尉は何故自決したのか。遺書らしきものはないので憶測するしかない。「関東軍火工廠史」は「自決した柳中尉を偲ぶ」と一項を立てて関係者の証言を集めている。手記を寄せたのは庶務科の米田穣賢軍属、鈴木弓俊中佐、稲月光中尉、木山敏隆雇員、鴨沢弘(工務科の将校だが階級不明)らである。これらの手記をもとに「柳中尉の死」を検証してみようと思う。
柳尚雄は25歳か26歳で、東京帝大理学部工学科を卒業した陸軍技術中尉。相手によっては激論をたたかわす熱情の持ち主であった(稲月)。食事しながらでも本を読む一方、厳しい国粋主義者で「大和は神の国なり、決して滅びず」と今次戦争の勝利を確信していた(鴨沢)。
28日は午前に稲月中尉の部屋に寄ったが、夕方近くなって浜本宗三大尉宅を訪れている。浜本は留守で奥さんが対応した。帰宅後その話を聞いた浜本は「あいつ今日は会議に出て来ず、どこへ行ったのかと思っていたらうちへ来たのか。前の会議で言ったことに少し気になることがあるな」とつぶやいた。(後述するが、浜本大尉はこの5カ月後に命を落としている。この日の浜本の行動は米田の手記による)。
「前の会議」とは前日に浜本大尉を中心に集まった「28日の将校会議でどういう方針を提起するか」という非公式な対策会議のことで、ここには柳中尉も出席していた。浜本と柳は火工廠の将来図について「大局の洞察、愛情と正義」を基本とすることで一致、打てば響くの如くであった(鈴木)。
この対策会議において柳中尉は、8月25日の林部隊長の対応を強く批判する発言をした。それが浜本大尉の頭の隅に引っかかっていたと思われる。ところで、米田の手記では28日の林部隊長召集の将校会議には柳は出ていなかったことになっている。稲月の手記もそれと同じなので筆者は柳欠席説を採用したが、柳が出席していたという見方もある。鈴木弓俊中佐と工務科・鴨沢弘の手記である。
鈴木手記《8月28日、柳さんは6時半頃に起床した。私の部屋で誠にしみじみと一点を見つめながら「これからの日本を救う道は、科学の新生面を展くしかない」旨を述懐された。私は押入れの布団の下から預かっていたピストルを取り出して返却を申し出、あけてあった窓から電柱を目がけて1発発射した。柳さんは驚いて「露助を刺激したら大変だ」と私を宥めてピストルを引き取った。
28日の会議に当たって浜本、柳氏らの狙いは、平穏裡に新体制に移行する決議を得ることにあった。私はこの会議に出席せず、1人で製造科事務室の留守番をしていた。会議が終わって柳さんが部屋に入ってこられたのは午後に入っていたのではないか。呆然とした表情で、私が会議の首尾を尋ねたのに対し、言葉少なにあしらってすぐ部屋を出られた。この後浜本さんの留守宅へ立ち寄り、夕方には吉野山でピストルを発射し自らの眼窩を撃ち抜かれたのである》。
鴨沢手記《8月28日の会議には私は出席していない。8月25日夜の事件の処置についての会議だったと思う。柳中尉がその責任の所在について林閣下に迫ったということを、出席者の誰かに聞いたことを覚えている》。
2人とも会議に出席して直接に柳を見たわけではない。すると米田手記の、浜本大尉が「あいつ今日の会議に出て来ず」と言ったという方がリアルで真実味がある。ただ、柳の林批判が本人のいない27日の対策会議なのか、28日に本人を前にして言ったのかでは意味が違ってくる。しかしそれを今や検証する術はない。