戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)
柳中尉は優秀な技術将校だった。鈴木弓俊少佐は二つの事例を挙げて絶賛している。第一「私は20年7月初め、耐酸材料の実態を勉強するため、唐戸屯の第二工場に日参した。井上富由技手から渡された資料の中に数冊の大学ノートに記された耐酸材料試験記録があった。その内容の非凡さに圧倒された。筆者の柳中尉にぜひ会って教えていただきたいと思ったものだ」。
第二「その頃柳中尉は火薬、化学行政の強化を任務として新京の関東軍総司令部に出向していた。それが火工廠で、夕弾型式の対戦車地雷の威力試験をやるというので来廠した。中尉は実験条件設定のために自ら手を貸して、実に行動的、実証的に試験を取りまとめて成功させた」。
井上技手は8月10日、新京の関東軍総司令部の兵器部の部屋で柳中尉に会っている。みんな退散してがらんとした建物の中で「自分はしばらくここで様子をみるつもりだ。火工廠東亜寮の自分の部屋に拳銃が置いてある。何かの時に役立たせてほしい」と言った。それが自決用に使われた拳銃である。
柳中尉が関東軍総司令部から火工廠に復帰したのは敗戦直前の8月13日で、その日から製造科に配属された。製造科事務所では、鈴木中佐、井上技手、浜本宗三大尉らがソ連参戦の非常事態にどう対処するかなどの議論が夜半に及んだ。復帰第一夜は布団などの荷物が未着なため鈴木中佐の部屋に泊まった。
そして運命の8月25日、柳中尉は爆死を決意した林部隊長から火薬点火役を仰せつかることになる。この玉砕に批判的な川原鳳策少佐が主導して、浜本宗三大尉を主席とするソ連軍司令官への再陳情の方針が立てられた。至急東亜寮に十数名の将校が集められる。玉砕回避へ向けての各自の任務分担を話し合うためで、この会議に柳中尉も出席していた。「関東軍火工廠史」の鈴木弓俊の手記によれば、席上柳中尉はおおよそ次のような発言をしたと記されている。
「自分は廠長の信任を得ており、もし玉砕現場にいないとなると林廠長を不安にし混乱を招くことになりかねない。従って玉砕場から離れるわけにはいかない。ソ連軍司令部への軍使の帰還が遅れて、林廠長が点火を命じることがあっても極力点火を遅らせるよう努力する。万一点火しても爆発を防げるよう導火線に細工をする」。
その夜柳中尉のとった行動はまさにこの発言通りであった。玉砕を回避できたのは浜本大尉らの決死のソ連軍説得が功を奏した賜物であることは間違いないが、直接的には導火線への点火を拒んだ柳中尉、稲月光中尉の決断によるところが大きい。