戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

爆風(41) 18/01/25

明日へのうたより転載

 進駐してきたソ連軍はどんな軍隊だったのか。まず筆者の遠い記憶から探ってみる。ソ連軍が宿舎にしたのは部隊本部の建物と工場だった。部隊本部は幹部クラスで一般兵隊は工場で寝泊まりしていたのではないか。工場は高い塀で囲まれている。8歳で国民学校2年生の私は友だちと連れ合って工場の塀の下に行った。すると若いソ連兵が顔を出して紙に包んだひまわりの種をくれた。炒ったひまわりの種は香ばしくてアブラもあって結構食えた。私たちは種をポリポリ噛みながら塀の下で石蹴りなどして遊んだ。

 唐戸屯地区の工務科鴨沢弘の手記。《唐戸屯地区に駐屯した分隊の最初の隊長はクリロフ少尉といった。背はそれほど高くなかったが白哲金髪の美青年だった。宿直の夜筆談で話し合ったことがある。愉快な好人物だ。ドイツ軍と戦ったことを自慢していた。あまり教養のある人物に思えなかった。部下の兵士の話では、確かに少尉は大学卒だが、ソ連では大学卒で優秀なのは技師になったりして軍務にはつかないそうだ。

 クリロフ少尉の後任はベリヤイエフ少尉で、その頃のこんな話が記憶に残っている。日本人女性を接待に出せとの要求に遼陽のその筋に頼んで職業的婦人に来てもらった。この婦人がその夜相手にしたソ連軍士官があまりに烈しいので一晩で遼陽に逃げ帰り、しかも入院してしまった。林光道閣下が激怒してベリヤイエフ隊長を難詰したという話だ。その後中国人女性に頼んだが彼女たちも一晩で逃げ出した》。

 庶務科米田穣賢の手記。《日本人による工場の施設撤去を監視しているソ連軍守備兵は、17,8歳の子どもみたいのと40過ぎの年配者だった。将校も20代そこそこで、全員補充兵ばかりのように見えた。文字を書けない兵が多く、書けても下手な字だ。彼らは時計や万年筆、カメラを欲しがった。腕時計を両腕に2つも3っつも付けて自慢しているが、ゼンマイが切れて動かなくなると「エエハラショ」を連発して腹を立てた。ネジの巻き方を教えると「スパシ―ポ」と子どものように喜んだ。

 機械類に対する知識に乏しく、兵器の扱いにしても、日本兵のように陛下の銃というような考えはなく粗雑に撃つ。唐戸屯の本部前で機関銃をぶっ放す。故障で動かなくなると決して修理などしない。弾を抜き取ると平気でその辺に置き去りにする。弾もキジを撃ったり、豚を撃ったり無駄遣いする。日本人にはとうてい考えられない。

 司令官が交代するときには貨車が1輌引き込み線まで回される。そこへ食糧や衣料品が詰め込まれるのだが、記帳が実にいい加減で実際との差は司令官の余得になる。満人はロシア人を大鼻子(ダービーズ)と呼んで馬鹿にしている。「ダービーズ・ローマイーアン」(ロスケは驢馬と同じだ)というのは、ソ連兵が女と見れば襲ってくるからだ。それに対して日本人はプーハオ(悪い奴)もいればシンテンハオ(良い奴)も多いからハオ(好き)だという。どこか親しめるということらしい》。