戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)
高崎総裁は「鞍山の昭和製鋼と連絡がとれていないので心配だ」と言い、鞍山製鋼所の岸本所長(大将)宛ての親書を加々路に託した。加々路は遼陽に帰隊後鞍山へ出向き、岸本大将に直接この書面を手渡す。岸本は食い入るように手紙を読み「これで今の新京の様子、高崎総裁の考えがよく分かった。すぐこちらの模様を知らせることにする。わざわざありがとう」と礼を述べた。
ソ連軍による工場施設撤去および本国への運搬は10月いっぱいでほぼ目途がついた。そして迎えたのが11月6日である。遼陽のソ連軍司令部から「本日は革命記念日により貴部隊将校を式典にご招待したい」との連絡。このところのソ連軍の動きを見るとどうも臭い。そのままシベリアに連行されるのではないか、という心配があったが、招待を断る理由はない。ソ連軍はパスまで用意しているのだ。
バスに乗り込んだのは40人程の将校たち。夕闇が迫る中を家族や残留将校に見送られて出発した。ところが走り出してしばらくすると、エンジン不調でバスが止まってしまった。ソ連兵は困りきった顔だが、日本側は平然と呑気に修理が長引くの待つ。同乗の和泉正一は本来戦車隊出身なので、自動車のエンジン修理についてはいささか心得もあったがここは一切知らんぷり。
やっと修理が終わり、再びバスに揺られて遼陽のソ連司令部に着いたのがもはや夜半過ぎ。革命記念日の式典なるものがほんとにあったのかどうかも判然としなかったが、ソ連側はしきりに「手違い」を詫びて将校たちを東京陵へ送り返した。後で知ったところでは当日、革命記念日への招待を口実に集められた多くの日本兵がシベリア連行に遭っている。東京陵のバス故障は不幸中の幸いと言えなくもない。
日本人将校のシベリア連行に不覚を取ったソ連軍は翌11月7日、林光道少将(部隊長)を夫人の目の前で自宅から連行した。「火薬製造について質問したい」との理由だが、8月25日に次いで2度の将校連行失敗の尻拭い的措置だったものと思われる。しかし、将校、軍属、その家族にとってもはや林は最高指導者としての権限も人望もない。そのソ連連行はソ連側が意図したようなショッキングな出来事ではなかった。林光道は数年のシベリア抑留後、帰国して日本で生涯を終えた。
ソ連軍が火工廠の支配を中共軍(以下「八路軍」「東北人民解放軍」とも呼ぶ)と交代したのは11月17日だった。その直前、三度目のシベリア連行の企みが仕掛けられた。今度は旧関東軍司令部がソ連に加担しており、矢面に立ったのは林部隊長の権限を引き継いだ吹野信平少佐であった。