戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

爆風(47) 18/02/13

明日へのうたより転載

 工務科の中尾英一が電話交換台の勤務中隣の変電所に落雷、火災が発生して配電盤の一部が焼けた。そのため東京陵の大部分で停電になる。それは一昼夜で復旧したが、ソ連軍は放火ではないかと疑い、拳銃を突きつけて原因追究を迫った。懸命の説明で落雷であることが了解されたが命の縮む思いだった。

 初秋のある日、中尾は電話架線点検のため張台子(遼陽の一つ奉天寄りの駅)まで山道を歩いた。道案内には庶務科警戒の戸塚陽太郎に頼んだ。はるか彼方の道を徴発した牛の群れを追って南下するソ連兵の姿が見える。戸塚は防腐処理をしていない線路の坑木に自然発生した椎茸を採集して持ち帰った。多分筆者はその椎茸を食べたのだろうが記憶はない。父はソ連支配中も守衛の仕事をしていたようだ。

 当時のことで母から聞いた話が記憶に残っている。秋も深まった頃、わが家に北満から逃げてきた避難民が立ち寄った。若い夫婦で奥さんは坊主刈り、男用の軍服を着ていた。母に食べ物を乞う。母は冷たくなった高粱飯を出した。それをがつがつと食べながら涙ながらに語ったことが悲しい。

 「私どもには1歳と3歳の兄妹がありました。とても連れては逃げきれないので2人が寝ている間に家を出てきました。布団に灯した電球を差し込みました。私どもが満鉄の駅に着く頃、発火して家もろとも燃えたはずです。一緒に逃げてきた若夫婦は途中でお母さんに青酸カリを飲ませました。地獄です」。

 吉林の病院で発疹チフスに感染し、敗戦もその後の混乱も知らずベッドの上で朦朧状態で過ごした勝野六郎軍医。9月半ばになってやっと回復して、尾林助産婦の助けを借りて唐子屯診療所の仕事に復帰した。

 勝野六郎軍医の手記。《唐子屯診療所に復帰し、ソ連兵の診療を始めて、日本敗戦の実感がしみじみと噛みしめられた。彼らは農民出身で個人的には純朴だが、教養は感じられない。集団になると乱暴を働く。しかし病院に対しては好意的で、八路軍の兵士が医薬品を持ち去るのを防いでくれたりした。

 ソ連兵は一寸した傷でも病気でもすぐ相談にきた。やはり淋病の兵が多かった。プロタルゴールの洗浄とトリアノンの注射をしてやった。遼陽の医師がソ連軍に連行されていなくなったらしく、遼陽滞在の将校も唐子屯までやってきた。彼らはペニシリン持参でその上ドイツ語ができた。これはその後の病院経営に役立った。ペニシリンの即効性には驚嘆した。どんな感染症でも2、3本の注射で即無菌になり完治した。

 彼らはソ連の軍医をあまり信用とていなかった。軍医の1人が私に梅毒の治療について尋ねるので、ワッセルマン反応の話をしてやったら驚いていた。なるほど医学知識のレベルも低かった。顔見知りになった高級将校に「お前は旅順で働く気はないか。家族ともども、もっと楽な生活を保障する」と誘われた。私はここの日本人と運命を共にしたいと断った。旅順行きを受け入れていたら多分私は帰国できなかったに違いない。