戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

爆風(48) 18/02/16

明日へのうたより転載

 日本人の診療には邪魔をせず、中共軍兵士が巡回に来ると追い払ってくれた。11月になるとソ連と中共が混在して診療所の支配にあたるようになった。両者は仲が悪く、お互いに軽蔑し合っているように見えた。しかし最終的にはソ連の方が力としては上で、威張っていた。

 ある時、日本人の婦人の胸部診察をしているところへ悪気はなかったようだが中共軍兵士が入ってきた。言葉が通じないので手で押し出そうとしたら彼は怒って食ってかかってきた。そこへソ連兵が来合わせてしまい、中共兵との揉み合いになった。ソ連兵はベルトを抜いて中共兵を鞭打つ。中共兵は恨みのこもった眼を私に向けて部屋を出て行った。

 また私はソ連軍将校の夜の席に招待されることがしばしばあった。私としては気が進まないが断れない。ソ連のジープで中共軍の歩哨線を通過する。これも中共軍にとっては苦々しいことだったらしい。そんな些細な事柄が重なって後日ソ連軍撤退後、私が中共軍に報復される一因になった」。

 8.25の混乱が収まりほっとした頃、唐戸屯地区の矢部喜美子は隣組官舎の集まりによばれた。隣組12軒からそれぞれ婦人ばかりが集められ、組長からの話があった。「進駐してくるソ連兵のところへ、
輪番制で奥さんたちに行ってもらうことになるかも知れない。辛いことではあろうが、全員無事内地へ帰るためにはこらえてほしい」。身の毛のよだつような話だった。

 集まった婦人たちはびっくり仰天、ショックでみんな青ざめた。《そんな恥辱を受けるくらいなら、渡されて持っている青酸カリを飲んだ方がいい》。奥さんたちは叫んだ。集まりから帰っても気持ちは治まらない。いつそんな日が来るかと生きた心地もしない毎日だった。そこへ救いの神として来てくれたのが遼陽市内で水商売の仕事をしている女性たちだった。矢部喜美子たちは自分の着物をお礼にさし出した。そのようにして自らは恥辱を免れたが、同じ女性として胸の詰まる思いだった。

 10月17日、唐戸屯から東京陵へ向けて、ソ連軍少尉の運転する消防車が走っていた。無蓋の荷台には日本人の男女6人ずつ。運転が未熟なため車は蛇行を重ね、とうとう車輪が道脇の溝に落ち転覆してしまった。この事故で石坂俊子(22)、黒木幸子(20)の2人が横転した車の下敷きになって亡くなった。2人とも大坂の出身で、女子挺身隊として志願、唐戸屯の関東軍火工廠第四工場で働いていた。この事故以後、ソ連軍は兵士の勤務外の行動管理に厳しくなり同種事故の続発が防止された。