戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

爆風(49) 18/02/19

明日へのうたより転載

4 八路軍駐留の時代 
 1945年11月18日、火工廠からソ連兵が撤収をはじめ、東北民主連軍の蘇文廠長以下十数名が替わりに乗り込んできた。東北民主連軍は4日前の11月14日に成立した軍隊で、前身は東北人民自治軍である。実体は中国共産党(八路軍)の軍隊だが、日本敗戦直前にソ連と中華民国・国民政府との間で結ばれた「中ソ友好同盟条約」によって満州地区では共産党軍は正当な組織と見なされなかった。

 中ソ友好同盟条約でソ連は国民政府にのみ軍需物資等の援助を行い、満州におけるソ連の軍事行動が終われば速やかに撤退し、国民政府による行政権が回復するものと規定された。国民政府と共産党軍は対日戦争では国共協定(国共合作)を結んで共に戦った。しかし日本敗戦で共通の敵がいなくなった時点で再び合い争うことになる。本格的な国共内戦となるのは46年6月からだが、双方は共に内政に備えた軍事組織を整備しつつあった。

 ソ連はこの時期、満州全域から撤退していくのだが、後の行政を任された国民政府はハルピン、新京、奉天などの大都市は押さえたが農村地帯までは力が及ばない。火工廠のある東京陵、唐戸屯は八路軍の支配下にあった。なおこの当時の東北民主連軍総司令官は後年文化大革命を推進した林彪である。林彪は1907年生まれだから当時は38歳、25年に共産党入党以来の毛沢東の戦友だった。

 火工廠に乗り込んできた蘇文は、唐戸屯の第二工場に本部を置き、工場再開へ向けた準備を始めた。関東軍火工廠は「東北兵工第七廠」(東北兵工廠)と名付けられる。主な工場設備はソ連に持っていかれたが、残った工場建物、機械、原料で国共内戦に必要な兵器・弾薬の製造を企図したのだ。

 民主連軍(実体は八路軍)は工場再開を目指して千人単位の兵を送り込んできた。彼らは日本人の個人の官舎に数人ずつ分宿した。その方法はかなり強引だった。筆者の家にも3人ほどの八路軍兵士が来て、3部屋のうち1部屋を占拠した。ソ連兵と違って女子どもに危害を加えたり、私物を略奪したりはしなかったが、土足で家に上がるなどの乱暴な行為は幼い筆者の記憶に刻まれている。

 歯科医の松永薫の官舎には小隊の隊長以下10人も分宿、家族は1部屋に閉じ込められた。全部屋占拠された家もあると聞いていたので1部屋でも使用許可が出たのでほっとした。彼らは不寝番を立てて警戒した。このためそれまで度々あった現地民の略奪行為がなくなったのは皮肉だった。

 松永は中国語ができるので彼らの話相手になった。それで隊長はじめ兵士に好かれた。八路軍は歌が好きだ。東方紅、太陽昇、中国出了毛沢東を歌った。俗歌の桃花江や毛々雨等も好んで合唱した。彼らの1人は「自分たちの親兄弟は日本軍に殺された。しかし今は恨んでいない。悪いのは軍閥、財閥であってあなた方ではない」と言った。自分たちの仲間に岡野進という日本人がいるとも。野坂参三のことだと気がついた。