戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

爆風(50) 18/02/22

明日へのうたより転載

 松永歯科医が接した八路軍とはどういう軍隊だったのか。筆者の記憶によればその頃の両親も近所の人たちも八路軍を「パーロ」と呼んでいた。幾分かの侮蔑、恐れ、嫌悪感、それから若干の親しみなどが入り混じった言い方だったように思う。ソ連軍を「ロスケ」と呼んだ意味合いとはちょっと違う気がする。

 八路軍の前身は中国工農紅軍で、1937年8月、中華民国・国民政府の管轄下に組み込まれ「中国国民革命軍第十八集団八路軍」と改称された。根拠地は華北から満州にかけての地域で、中国中南部には「中国革命軍新篇第四軍」(新四軍)が配置された。国民政府軍が対日戦争の前線で戦ったのに対し、八路軍、新四軍は日本占領地域の後方でテロやゲリラ活動を行った。それらの兵は便衣兵とも呼ばれた。

 八路軍の幹部には解放後に要職に就いた著名人が多い。
  総指揮官 朱徳
  副総指揮官 膨徳海
  参謀長 葉剣英
  総政治部主任 任弼
   第115師団長 林彪
   第120師団長 賀竜
   第129師団長 劉白承

 これらの軍編成は正規軍のもので、下部組織として農村での生産活動から離れて遊撃戦を行う地方軍、生産活動をしながら適時戦闘に加わる民兵組織がある。それらを含んで45年当時の兵力は60万といわれていた。

 八路軍は将兵に対し「三大紀律 八項注意」と呼ぶ行動規則を科した。
  三大紀律 ①一切の行動は指揮に従う、②大衆からは針1本も盗らない、③捕獲品はすべて公のものとする
  八項注意 ①話は穏やかに、②売り買いは公平に、③借りたものは必ず返す、④壊したものは弁償する、⑤殴ったり罵ったりしない、⑥農作物を荒らさない、⑦婦人にみだらなことをしない、⑧捕虜を虐待しない

 実際の八路軍はどうだったのか。松永歯科医は次のように証言している。
 《遼陽市内の様子を探るため、国民学校の荷宮先生と2人で出かけたことがある。途中、歩哨の八路軍兵士から何度も身体検査を受ける。遼陽へ着くとまず商店に入って話を聞いた。松永たちを日本人と見て、店の主人が八路軍についてさんざん愚痴をこぼしはじめた。八路軍兵士は市場では通用しない貨幣で品物を買い、お釣りまでとっていく。品物をタダでやった方がましだという。

 そこへ表の通りを八路軍兵士が軍歌を歌いながら行進してきた。行列の中に負傷した元日本兵が銃剣でつつかれながら歩かされている。私たちは涙で見送るのみだった》。