戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

爆風(51) 18/02/24

明日へのうたより転載

 薄ら寒い12月初旬の昼下がり、鈴木弓俊の妻百枝は子どもと2人で家にいた。そこへ4人の八路軍兵士が玄関を入ってきた。玄関には冬に備えて、ニンジン、大根、ジャガイモなどが入った箱が積んである。それが邪魔らしく4人で外へ運び出す。野菜を盗られるのではないかとびくびくしながら見ていると、土足で風呂場に直行し、2人1組になって髭を剃り始めた。剃ってやったり剃られたり。つるつるに綺麗になると、先ほど外へ出した箱を玄関に戻し、丁寧に頭を下げて出て行った。

 加々路仁は11月10日から1週間かけて2度目の新京出張を試みた。今回の同行は鈴木弓俊に依頼した。新京へ行く目的は居留民会の高崎達之助総裁に会って、元火工廠部隊としての基本方針を伝え了解を得ることだった。鉄道はソ連軍支配下にあり、順調に運行されている模様であった。

 新京に着き高崎総裁に会うと加々路は次のように「われわれの基本方針」を述べた。「元火工廠は今後軍事に関与せず、中国の産業復興に貢献する。日本人の大多数は内地帰還を図るが、1部の人たちは残留して中国に協力する。厳冬を目前に控え生活難にあえぐ日本人避難民を受け入れる」。

 これに対し高崎総裁は全面的に同意し了承した。元火工廠部隊があくまでも居留民会の組織の一部として行動することが確認され、避難民援助の具体策が立てられた。さらに加々路は、部隊として調査した南満地区における日系企業・工場の実態報告書を提出して説明。高崎総裁は「大変貴重な資料だ。いろんな面で役立たせたい」と喜んだ。さすがの情報通も知らないことが多かったらしい。

 加々路に同行した鈴木弓俊はこの第二次新京出張について次のような手記を書いている。
 《10月に続いて2度目の新京出張という旅慣れた加々路さんに連れられての旅行で、いろいろ教えられることが多かった。往路、四平の駅舎で夜明けを待ったことがある。達磨ストーブを囲み折り畳み椅子に腰かけての仮眠だ。私たちは満鉄の作業員の服を着て遼陽から用事で来た駅員に化けているのだが、本物の満鉄社員には何となく分かるらしい。暖をとりながら二言三言雑談を交わすうちに身元調査のようなことになる。タヌキ寝入りしていた加々路さんが目でお前も寝ろと言う。私もタヌキの仲間入りしてその場は助かった。

 新京からの帰途、往路でも立ち寄った四平駅から外へ出た。秋の日差しの中、燃料廠に向かう。四平の街は全満中1番平穏なのではないか。燃料廠の廠長が昔第一次大戦の折、従軍武官としてドイツ降伏の実務に携わっていた。その経験を生かして、進駐してきたソ連軍に応接。それがうまくいって接収手続きがスムースに運び、街の治安維持は日本軍に任されることになった。そのため他地区で起こったようなソ連軍兵士による略奪・暴行がなかったと言われている》。