戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

爆風(53) 18/03/03

明日へのうたより転載

 火工廠電気掛で班長を務めていた大島具保は9月のある朝、「ばんちゃん、ばんちゃん」の声に起こされた。ばんちゃんとは班長のことらしい。硝子戸越しに外を見ると満人が馬車を引いて官舎の前に集まっている。元部下の満州電工の韓振声班長や王通訳、その他7.8人の顔が見える。

 「班長、元気ですか。奥さんや子どもさんは・・・」と暖かい声をかけられて一瞬胸が詰まる。「君らもいろいろあったが、元気のようで何よりだ。ところで朝早くから何だね」と訊くと「班長は知らないのですか。今日は電柱や電気工事資材の受領の日ですよ」と答える。なるほどあのことか、大島には心当たりがあった。

 1週間前、大島は部隊責任者の吹野信平に呼ばれ、夜分宿舎を訪ねた。「是非とも家族ら全員無事故国の土を踏ませたい。そのためには周辺部落民との融和が必要だ。彼らが何を望んでいるか。それを部隊として叶えられるものは叶えてやることが、我々の生きる道にもつながる。明日にでも部落に入って探ってきて欲しい」と吹野に乞われ、一の二もなく引き受けた。早速満服を着て屯長や旧知を回る。彼らが電灯をつけて欲しいと強く願っていることを察知しそれを吹野に報告した。

 その電気工事資材運搬の日が今日だったのだ。大島は日本人の同僚を呼び集め、馬車を連ねて唐戸屯の電気工事資材倉庫へ向かった。そこで必要資材を積み込み部落まで運んだ。実際に工事に着手したのは10月に入ってからで、戸外の工事は寒さに晒された。以前は防寒服に身を固めていたが今は軍服のみ。大変な苦労をして穴掘り、建柱、延線と作業を進めた。部落民総出の共同作業で工事は予定より早く進捗し、年内に工事完了、翌年新年早々には部落全体に電灯が灯った。満人の喜びは大変なもので、日本敗戦後しばしばあった略奪行為がぱたりとなくなった。大島は吹野から「よくやった」と労われた。

 その頃の食糧事情はどうたったのか。筆者の記憶では、主食は高粱と粟とポーミだった。ポーミとはトウモロコシの粉である。一番食べたのは高粱だが、これはどう炊いてもおそろしく固い。母は水を多くしたり炊き方を工夫したようだが、最後はひたすら顎が痛くなるまで噛んで飲みこむしかない。粟はお釜にへばりついて固まってしまう。ポーミは水に溶かしてパン風に焼くのだがぱさぱさして食えたものではない。

 食べ物のことで筆者の記憶に残っているのは雀の肉だ。家の裏にかすみ網を仕掛けておくとたまに雀が引っかかる。首をひねり羽をむしって丸裸にする。それに醤油だれをつけて雀焼きにして食った。小雀は骨ごと食えた。父と太子河に魚釣りに行ったこともある。砂もぐりという東京湾のハゼに似た奴がよく釣れた。塩焼きや砂糖の入らない甘露煮にして食べた。いま思えば、そんなものでよく生き延びたものだ。

 高粱をはじめ食べ物は満人から買わなければならない。独身の若者たちは資金稼ぎに満人部落へ百姓仕事をしに行った。1日農作業の手伝いをして50円くらいにはなる。この賃作業だが、誰でも行けるというわけではない。敗戦前に満人に対して暴力をふるったような男は仕返しが怖くて部落に入れなかった。

 和泉正一は印東和、吉岡等と3人で雑嚢に散発用具を入れ洗面器まで用意して部落へ入った。床屋の開業である。散髪代は当時10円が相場だったが、和泉たちは8円にした。結構お客が集まって繁盛した。お釣りの2円をご祝儀にはずむ客も多く、1日500円くらいになった。そのお金で食糧を買い意気揚々と帰途についた。