戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)
移動床屋で毎日出歩いていた和泉たちが、ある日ばったり旧知の顔に会った。旧満州軍(満軍・中国から見れば傀儡軍)の少尉だった男である。彼は今穀物の集荷所で働いているという。和泉たちが、穀物を確保するために苦労している話をすると、それなら高粱を卸値で分けてもいいと申し出た。当時高粱の市価は1斤5円だが卸値なら3円50銭で済む。早速取引契約ができて彼は馬車で高粱を届けてくれた。これが引き揚げまで続いたことが、火工廠関係者家族ともども5000人の命の綱になった。
東京陵病院の勝野六郎医師は、近隣の満人部落を回り診療することが多くなった。部落からの要請というより、診療費を餅粟、黍、米等の現物でもらえるという理由からだ。もらった食糧はささやかだが民会を通じて年寄りや幼児のいる家庭に配られた。薬は貴重なのでなるべく診断と治療方針の説明だけにしたが、それでも勝野たちが行くと沢山の患者が待っていた。重症の患者の家への往診もした。
病いはやはり結核が多かった。他に気管支疾患としては喘息、肺気腫、肺化膿症、それから肺癌も見られた。循環器系では発作性頻拍症、心房細動、狭心症が目立ったが高血圧症は少なかった。消化器系の癌、肝硬変、末期の糖尿病、痛風、それに1件だけだが筋委縮症の患者もいた。婦人科疾患は殆ど診察に来ず、子どもの疫痢、肺炎、小児痙攣などは死ぬまで放置されているのが現実の様子だった。
東京陵、唐戸屯ともに住民組織は町会、隣組が仕切った。ソ連軍支配から八路軍統治の時代に入り、故国への引き揚げはかなり先になる見通しになってきた。このまま売り食いの生活だけでは破綻が来る。なんとか自活の道を探らなければ全員干上がってしまう。町会が中心になって寄り集まり、みんなで知恵を出し合った。そこで考え出されたのが次のような自活方針である。
①義勇隊員及び独身者は近隣の農民(満人)の要求に沿いグループに分かれて農業の使役に出る。
②木工、左官、板金等の特技を有する者は民会の斡旋で現地人の要望に応じて仕事に行く。
③技術者たちのグループは工場に残留しているトルオールを原料にして硫化染料を製造し、奉天などへ売りに行く。
④家庭婦人はグループ毎に木片を削ってマッチの軸をつくる。技術屋がつくった黄燐を先端に塗って乾燥させる。そうしてできた燐寸を近隣の部落に売りに行く。
こうして得てお金は一部は本人に渡すが、大部分を町会でプールし10日ないし半月毎に各世帯へ人数割で配分した。このようにしていつになるか分からない引き揚げの日をひたすら待ったのである。