戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

爆風(55) 18/03/05

明日へのうたより転載

 互助を基本にした民主的な自活方針はそれなりに順調に進んだと言えるが、なにしろ5000人に及ぶ人間集団である。衣食住は困窮し、故国への引き揚げは絶望的、精神的に極限状況に追い込まれている人々。そんな中での人間関係はそう単純な話ばかりではなかった。――唐戸屯の居留民会に在職し、町内会や隣組の運営に関与していた松岡達夫は次のような手記を「関東軍火工廠史」に寄せている。

 《心身の不安につけこんでいろんなデマが飛び交った。引き揚げは近いが、所持金は一切認められない。どうせ持って行けないなら楽しく使おうではないか。そんな誘いで博打が流行った。全財産をなくし、家族ともども途方に暮れる者も出る。自暴自棄になって暴力沙汰に走る人も。民会ではこれらの一部不心得者に注意を喚起したが、それでも改心しない場合は懲罰委員会を開いて民会から排除することもあった。集団の秩序を維持するために止むを得ぬ措置であった》。

 移動床屋や畑仕事とともに生活資金稼ぎに役立ったのは煙草製造である。近隣農家から煙草の葉を仕入れ、家庭の本をばらして紙巻き煙草にする。それを満人部落で売って歩いた。長友いさ子も1日中煙草の紙を巻いた。夫は2泊3日くらいで農作業に出かけたが、帰ってくると虱だらけ。子どもにも移って痒さに苛まれた。夫は賃作業を止めて魚釣りに行ったが晩のおかずがやっとで、売るほどは釣れない。

 冬が迫ると暖房の心配が深刻になった。スチームに蒸気が通らない日がしばしばある。寒さを防ぐための厚手の下着は命から二番目の貴重品だ。初冬のある日、八路軍兵士が3人ほどでやってきて家探しを始めた。箪笥の奥に大切にしまっておいた夫の純毛のシャツが見つかったしまった。《あれをとられたらこの冬どうしようもない》いさ子は《それだけは持っていかないで》と懇願した。しかし兵士はシャツを手放さない。いさ子は思わず《人情知らず》《泥棒》と叫んだ。そして思い切り泣き叫ぶと、さすがの兵士もびっくりしてシャツを置いて去っていった。

 この長友家を襲った八路軍は正規の軍隊でなかったことが後で判明した。八路軍の行進の途中で志願してきた農民で、中には日本人官舎に野菜売りに来ていた満人が大威張りで八路軍になったりする。これら急造りの兵士は隊の規律が届かない。この時期、国府軍が北上してきて八路軍は苦戦していた。そのため兵力の増強を図ったのだろうが、兵士としての訓練まで手が回らなかった事情があったようだ。長友いさ子の手記でも年末頃から公然とした略奪行為はなくなったと記されている。