戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)
八路軍と朝鮮義勇軍(以後合同軍と呼ぶ)は反共蜂起の情報を掴んだ時点で、首謀者を一網打尽にしようと思えばできたはずだ。しかし合同軍は事前には動かず、重火器を装備して襲撃個所を厳重に固めた。このようにして2月3日が明けた。蜂起軍が変電所を占拠し、電源を3度点滅させて蜂起の合図をした。
佐藤少尉率いる第一中隊150人は専員公署を襲撃したが、待ち構えた合同軍の機関銃や手榴弾によってなぎ倒された。合同軍の攻撃の合間を縫って、佐藤少尉以下10人が、建物に監禁されている日本人を解放しようと乱入したが全員射殺された。監禁されていた日本人にも一斉射撃が加えられた。
阿部大尉率いる第二中隊100人は、八路軍司令部のある竜泉ホテルを襲撃する手筈だった。しかし建物に近づく前に合同軍の攻撃で壊滅してしまった。元通化公署を襲撃した寺田少尉率いる第三中隊は、内部から400人が呼応して合流するはずが応答なく、当てが外れて合同軍の銃撃に晒された。斬り込み隊を繰り出したが、圧倒的な銃撃の前に引き上げざるを得なかった。
中山菊松率いる遊撃隊は、公安局に監禁されている婉容皇后はじめ満州国皇族の救出に向かった。部隊は一時公安局を占拠、皇室が捕われている部屋に入ることができた。中山は皇后に「お助けにまいりました」と告げ同行しようとしたが、すぐさま公安局は合同軍に包囲された。機関銃や大砲の攻撃に遭い、遊撃隊員は次々に倒れる。皇族の命も危なくなったので中山は生き残りの隊員と公安局を脱出した。
この中山菊松には後日談がある。戦後数年で帰国した中山は日本で通化遺族会を設立、犠牲者の追悼と遺族への援護を求めて運動を展開した。1954年には大野伴睦の紹介で川崎秀二厚生大臣に「遺族援護法を通化事件遺族にも適用すること」を嘆願し認められた。
合同軍は蜂起の翌日から事件との関係の有無を問わず日本人への懲罰を始めた。男たちは首を針金でつなぎあわされて連行。満州の2月の寒さのなかを寝巻1枚、雪駄ばきで歩かされ落後するとその場で射殺された。狭い収容所に折り重なるようにして押し込められ、酸欠で口をパクパクさせる人も。特に朝鮮義勇軍兵士の言動が苛烈だった。「お前たちは銃殺だ。どうせぱっと散る桜じゃないか。36年の恨みを思い知らせてやる」。このようにして殺された日本人は蜂起に参加しなかった人も含めて2000人以上と言われている。
蜂起前日2月2日に逮捕された孫耕暁通化国民党支部書記長と2月5日に拘禁された藤田実彦大佐にはさらに過酷な仕打ちが待っていた。蜂起失敗からひと月後の3月10日、通化市内の百貨店で「2・3事件展示会」か八路軍主催で開かれたが、その展示品の一つとして孫と藤田が3日間晒し者にされたのである。監禁で痩せ細った藤田は「許してください。私の不始末によって申し訳ないことをしてしまいました」とひたすら謝った。藤田は3月15日に肺炎で死んだ
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