戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)
川原は孫某という自称国府中央軍スパイと懇意になていろんな話をするようになった。ある時川原が「どうもこう拘束された毎日では息苦しくてやりきれない」と嘆くと、孫は「食べ物は食わせてくれるし、働く必要もなく、殴られることもない。結構な暮らしではないか。私が新京で日本の官憲に捉えられたときはこんなじゃなかった。手足の爪の下に蓄音器の針を打ち込まれたり、指の付け根に鉛筆を挟んでゴリゴリ揉まれた。苦痛で後ろの壁に寄り掛かると、仰向けにされ鼻孔から水を注がれた。あの時の折檻責め苦に比べれば天国だ」と語った。川原は中国に対する日本の仕打ちについて今更ながら考え込んだ。
川原への八路軍による尋問は主に次の3点だった。①銀塊をどこに隠したのか、②白金等をどうした、③銃などの武器を隠しているだろう。3点とも川原にとって全く関知しない事柄だ。平然と顔色も変えず「知らないものは知らない」と言い続けた。
ある夜の取り調べで「お前は40人の斬り込み隊を組織して我が軍本部を襲撃する計画だったろう」と新たな嫌疑をかけてきた。何のことだか分からないのでよくよく聞いてみると、昨年9月に居留民会から頼まれて40人の開拓義勇軍の少年兵を預かったことを、斬り込み隊の組織と言いがかりをつけたものであることが分かった。丁寧に説明したところ、その件は納得してくれてその後は持ち出さなくなった。
ここで川原が訊問された「銀塊」と「白金」について経過を明らかにしておきたい。
火工廠第四工場にはフォルマリン製造の触媒用に使用する銀塊があった。火工廠がソ連の支配下にあった時代、加藤治久、和泉正一ら部隊幹部はソ連軍の略奪から守るためどこかへ隠すことを考えた。銀塊は国民政府にさし出すのが正しいと思ったのである。1本30キロの銀塊が9本。相当な量である。はじめ水槽に隠すことを検討したが入りきれないため、防空頭巾で覆って工場内の煙突に投げ込んだ。
この作業は少数で行ったのだがそのうちの誰かが、45年暮れから新年にかけて9本中2本を盗み出し、満人部落で金に換えて飲み食いに使ってしまった。このことが日系八路の探索で露見し保安隊に報告された。八路軍は残存銀塊を収容するとともに、もっとあるはずだと執拗な追及を始めた。川原鳳策の検束・監禁もその一環で、他に加藤治久、和泉正一、小田政衛、菅野成次、木山敏隆らが呼び出しを受け厳しく詮索された。この件は盗み出した犯人が八路軍に自白して決着したが、仲間内に疑心暗鬼と不団結を産み出す要因になった。
八路軍は東京陵病院内に、歯の治療に使う白金が保管してあるはずだと疑いを持っていた。それで川原鳳策にそのありかを聞いたと思われる。その頃歯科医の松永薫も同じ嫌疑で訊問を受けたが「陸軍病院では白金は扱っていない」とはっきり否定、八路軍もその後の詮索は諦めた。