戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)
(松野徹のぼやきに対する筆者の感想は歴史的に見ても多分正しいと思う。しかしそう言い切るだけで済ませられるのだろうか。天皇制専制国家によって「王道楽土」「大東亜共栄圏」の思想を幼い頃から頭に叩き込まれ、侵略の片棒を担がされた松野さん、思い通りにいかなくて囚われの身となり命がけでぼやいている松野さん、彼も一種の戦争被害者なのではないだろうか)。
眠れぬ夜を過ごした松野徹は混濁した頭で3月18日の朝を迎えた。午前8時、西の監房から名前が呼ばれて収容者が一か所に集められている。中国人の名前に混じって川原鳳策、吹野信平、松野徹の名が呼ばれた。他に火工廠関係の何人かも。集合場所に例の青白き一等書記が現れて「お前たちは無罪である。本日釈放する」と宣した。松野は《何が無罪だ。偉そうにしやがって》と文句の一つも言いたかったが、ここは黙って出て行くことにこしたことはない。川原、吹野らと連れだって早々に合作社を後にした。
兵器隠匿の探査は執拗に続けられた。東京陵第一工場の福田正雄は2月13日、風邪で床についていたところを八路軍によって唐戸屯の司令部に連行される。取り調べは武器隠匿に絞られた。全く預かり知らぬことなので「知らぬ存ぜぬ」て通す。尋問はそれほど厳しくなく、3日間で解放された。
釈放の翌日、ほっとして家にいると数人の八路軍兵士が土足のまま乱入、銃口に取り囲まれた。今度は遼陽の八路軍本隊まで連れて行かれ、幹部によって手を変え品を変え繰り返し尋問を受けた。何遍訊かれても兵器隠匿なんかしていない。同じ答えの反復に八路軍も手を焼いて雑談に移った。
3月17日のこと、八路軍の様子がどうもおかしい。朝から右往左往している。どうやら国府軍の進入が切羽詰まってきたらしい。「お前も連れて行く」と言っていたが結局彼らだけで退去していった。残された福田は長靴を穿いてとぼとぼと東京陵まで歩いて帰った。やっと家に帰りつき妻の言うには「福田は銃殺された」との布告が隣組から流され、朝からお悔やみの客が絶えないそうだ。
敗戦時庶務科文書掛長だった印東和は、当時の林光道部隊長から弾薬庫の鍵に封印するよう命じられた。印東は15センチ角の封印紙をつくり、印東の丸判を捺して鍵穴を塞いだ。その封印が何者かによって破られ、小銃と弾丸が盗まれる事件が起こった。犯人は分からなかったが、この武器盗難を八路軍が知るところとなる。彼らは通化事件の経験から「旧日本軍の反乱」を疑い、厳しい取り調べを始めた。
3月に入ると火工廠の責任者だった吹野少佐、浜本大尉が拘引され遼陽の八路軍本隊に連れていかれた。次に武器、弾薬保管の直接の担当者だった山田中尉、須藤中尉も逮捕され拷問に匹敵する追及を受けた。3月13日にはついに印東に出頭命令が出る。封印の丸判が何よりの証拠とされた。
印東は「封印したのは確かに私だが、中に何が入っているかは知らない。第一自分でした封印を自分で破ってそれをそのまま残しておくわけがないではないか」と主張したが理解されない。遂に「白状しなければ明日銃殺するぞ」と脅される始末。印東はたった1枚の封印の祟りに震えあがった。