戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

爆風(68) 18/04/02

明日へのうたより転載

 軍医の勝野六郎は3月5日、銃剣で武装した八路軍兵士に連行され、暗い部屋に監禁された。取り調べはほとんどない。3日後、連行についての何の言い訳もなくそのまま釈放される。ところが10日ほどしたら今度は便衣隊風の男に呼びだされた。夜遅いのに目隠しをされる。30分も歩いて線路のところに着いたら暗闇の中で銃声が一発。後で時間的に合わせて考えると清水隊の佐藤少尉の銃殺時間に一致する。八路軍兵士は「嘘を言うとお前もああなるのだよ」と日本語で勝野を脅した。

 目隠しは取られたが針金で後ろ手に縛られた。夜半なのに工事場の周辺で日本人が穴を掘っていた。何故穴を掘るのか質問したが誰も答えない。八路軍兵士は「余計な口は聞くな」と凄んで、病院近くの空いている官舎に引っ張り込んだ。そこには松岡道夫中尉がいたが話はできない。やがて2人とも宙吊りにされた。松岡は背が高いので爪先が床についたが勝野は宙に浮いた。

 縛られた手が麻痺し意識も霞んできた。何やら叫んだつもりだが声になったかどうか分からない。突然ガタンと床に落とされた。しばらくして意識が戻ってくる。小便を垂れ流したらしくズボンの前が冷たかった。意識をなくしている間に歩哨が変わったらしい。よく見ると以前傷の手当てをしてやった兵士だ。向こうも気がついて「酷いことをしたようですが、お気の毒でした」と一応謝ったが、「しかし何か知っていることがあったら早く言ってしまった方がいいですよ」と懐柔にかかる。

 訊問の内容はかなり多岐に亘っていた。①銀塊の隠匿、②病院の井戸から発見された機関銃のこと、③敗戦時の青酸カリの配布、④薬品隠匿の嫌疑、⑤ソ連兵と親密にしていたことへの反感、⑥八路軍への協力欠如、等である。勝野は「私は何も知らないから言うことはないよ」と答えてその後は黙った。

 縛りは解かれなかったが宙吊りはなくなった。松岡と2人並んで話もできる。手の痛みを堪えながらお互いに励まし合った。しばらくして何も言わずに釈放されたが、病院の薬棚からブドウ糖、リンゲル、サルバルサンなど貴重な薬品が持ち去られていた。国府軍の進攻に抵抗できず火工廠から撤退していったのである。

 八路軍は撤退したが、顔見知りの兵士がこっそり戻ってきて勝野に「往診鞄と持てるだけの薬品を持って我々に同行するように」と命じた。断りたかったが強制的に馬車に乗せられた。遼陽の街中で食糧を調達した後、太子河を渡って名も知れぬ部落の民家に落ち着いた。国府軍との戦闘の跡が柱や壁に生々しい。勝野はそこで八路軍兵士の銃創の手当てをさせられる。待遇はよかったし、態度も優しかった。

 ある日八路軍幹部が5歳の娘を連れてきて「肺炎だが手当をしてほしい」と頭を下げた。この幹部兵士は以前勝野に広島と長崎に落とされた原子爆弾の話をしてくれたことがある。勝野は1晩徹夜して、トリアン注射や糖液の点滴の治療をした。娘の高熱は収まる。それをきっかけに勝野は釈放され、単身東京陵に帰りついた。