戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)
銃殺された浜本宗三はどんな人物だったのか。浜本は陸軍技術大尉で火工廠では製造科長の役にあった。1914年(大正3年)5月14日生まれで横浜の出身、享年31歳、家族は夫人と2人の男の子。「関東軍火工廠史」に寄せられた証言をもとに人物像に迫ってみた。
西村秀夫の手記。「浜本さんは横浜の石屋の若旦那だった。若い衆と遊んだ話、喧嘩の話、麻雀が好き、バスケットの選手でもあった。バスケットボールを上から掴んで持ち上げることのできる巨漢。野球もやった。横浜高等工業学校では遊び過ぎて3月に卒業できず、追試で6月にやっと卒業。しかし陸軍に応召し、火工廠へ配属後は立派な技術者になった。視野の広い浜本さんは3年とたたぬうちに酸製造工程の権威と言われた。石屋の親分の血を引いただけに何事にも親分肌で形式的なことが嫌い、一見反軍人的でもあった。工場で働く軍属、徴用工、満人の工員にも分け隔てなく接した」。
鈴木弓俊は敗戦の年の初冬、浜本に中国観を訊いたことがある。浜本は「国共内戦で当面国民政府が勝つかも知れぬが、将来の中国の主人は共産党になるに違いない。しかし我々は今中共に協力するわけにはいかない。現中国の当主は国民政府なのだ。自分は唯物史観の本を読み、共産主義の勉強もしたが、人間性を否定している点で同調できない」と述懐した。実際に浜本の書斎には唯物史観の書籍があった。
あの8.25の混乱の時、身を呈してソ連軍司令部に乗り込みシベリア連行を取り止めさせた。結果5000人の命が救われる。一時浜本は多大な信頼を集めた。しかし八路軍の支配が長引くにつれ、浜本をファシストだという内部からの陰口が強まる。ファシストは民主主義の敵だという声がそれまでの仲間内からも聞かれるようになった。当然八路軍の標的になっていく。
鈴木弓俊は浜本一家が住んでいた白百合寮の風呂に、浜本と2人の坊やと入ったことがある。鈴木は「(あなたを陥れようという連中は)誠意の通じない相手だ。今はいったん身を引いて彼らに任せたらどうか。どうせ手に負えなくなって投げ出すに決まっている。その時復帰すればいいのではないか。このままではあなたは殺されるかも知れない。奥さんや子どもさんのためにも身の安全が第一だ」と勧めた。
これに対して浜本は「5000人のためを思えば手を引くわけには行かぬ。5000人が生き延びて祖国に帰るためなら、自分の命や家族のことは問題ではない」と言下に淡々と答えた。
吹野信平を柱とする浜本宗三、川原鳳策、加藤治久、加々路仁、勝野六郎らの将校グループは、日本人居留民の安全、祖国引き揚げを目的としていたが、同時に戦後の中国がアジアの巨大民族として大きく発展することも望んでいた。吹野が唱えた大陸蟠きょ説は、中国に日本がやったことの過去を贖罪し、日本が新中国建設に役立ちたいという理想だった。浜本たちはその実現へ向けて熱い議論をたたかわせた。
反面吹野たちの指導を心よからず思う人たちもいた。早く祖国引き揚げを実現するためには国府軍に頼るのが一番という考えを主張した。主張しただけでなく、国府軍に内通し、八路軍を掃討することが謀られた。吹野たちの指導部と国府内通派の集団とで対立が深まり、時には暴力沙汰になることもあった。
この日本人内部の亀裂に乗じて国府軍側からの働きかけが強まる。八路軍はますます疑心暗鬼になり、反共策動の根を断ち切るべく弾圧を強めた。しかも国府軍の進攻が迫ってくる。そこで彼らのとった手段が強制連行と銃殺だった。――浜本の眉間は真正面から銃弾が貫通していた。