戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)
居留民会関係者の中では、日本への引き揚げが現実味を帯びて語られ準備に熱が入ってきた。しかし東京陵朝日町の戸塚家や小林家のような一般家庭にはまだその熱が伝わってこない。1946年4月、本来なら新学期の始まりなのだが学校からの通知はない。国民学校2年の8月に敗戦になって以来、筆者はまともな教育を受けずにきた。その間学校再開の計画は立てられたようだが、その都度いろんな支障が出て取り止めになった。寺子屋式の小規模塾が行われていたようだが筆者の記憶にはない。
2年生の担任はあの8・25騒動の時、遼陽からの電話を取り次いだ鈴木久子先生だった。その鈴木先生から突然手紙をもらったことがある。戦後30年した1975年のことである。「私は貴男の事よく覚えて居ります。日曜日と気がつかず、ランドセルを背負って登校した貴男、ちょうど私が日直で、教室に居て2人で大笑いしましたっけ・・・。頭を掻きかき又帰っていった貴男。一寸そそっかしいところがありましたね」(そそっかしいのは私の素質で80歳になっても治らない)。この日曜登校の話は敗戦前のことで、夏休みが終わった2学期からはそれこそ毎日が日曜日のようなものだった気がする。
3月21日に出産した母は、三女悦子を疫痢で死なせた痛みからなかなか脱け出せない。父は怪我の後遺症で通常勤務ができない。わが家は小林家をはじめ町内の人たちの助けを借りてやっと春を迎えることができたのである。4月の末頃になると庶民の官舎にも引き揚げの情報が逐一伝えられるようになった。
遼陽市日僑善後連絡処桜ヶ丘支部から各家庭に「帰国便覧」が配布された。「この度突然日管(満州日 僑俘管理処)の方から帰還命令の内命が下ってきましたが、かねて覚悟の皆様十分用意も整った事と思いますが、尚日数もあることですから慌てず、騒がず、沈着に事を処し民会の指示の儘に遺漏のない準備をなし、全員揃って立派な団結を保って帰国の途に就きたいと思います」
そして帰国までの心構えを「終戦以来夢にまで見た祖国日本への帰還が実現する事になりました。もとよりこの帰国は中国当局を始め連合国の好意によるものでありまして、私ども日僑は良く自己の立場を認識し、祖国への長い旅路を恙なく一糸乱れぬ統制の下に終始しなければなりません。そして平和な日本国民として、民主日本再建の有力な一分子として、又中日合作の先駆者になる覚悟と努力が必要である事を良く胸に刻んで、祖国への旅に住みなれた遼陽、幾多の思い出を残した桜ヶ丘を出発しましょう」と説いた。
「帰国便覧」はさらに持ち帰り金品についての注意事項を記す。
①現金と証券=出発に際して年齢の区別なく1人1500円を携行する。このうち500円は出航地コロ島までの費用とし、残余金は難民救済資金として寄付する。日本へは1000円のみ。郵便貯金、戦時公債などの証券類は管理処で預かり、帰国後返還する予定。
②服装=行動に便利なものを選び、婦人はなるべくモンペを穿き、華美な服装、厚化粧はしない。
③携行品=背負ったり手に提げられる範囲とする。薬品、燐寸、油類、貴金属、カメラ、地図、ラジオ、カミソリ、ナイフ、多数で撮った記念写真、政治的書籍などは没収される。