戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)
引き揚げに際し、年齢に関係なく1人1000円の現金を持ち帰れることになっているが、当時の1000円はどのくらいの価値があったのか。まずこの現金1000円であるが居留民が持っていたのは日本円ではない。満州中央銀行発行の満州円である。満州建国時、満州円は独立した貨幣価値を持っていた。それが1935年、日本政府の意向で日本円と等価にされる。傀儡国たる所以である。
この満州円貨幣は日本では使えないので、コロ島の埠頭銀行で日本円に換えなければならない。当時日本はインフレが進行しており、貨幣価値はどんどん下がっていた。敗戦前後の貨幣価値をネットで調べてみた。1945年8月の敗戦直前、当時の100円は物価換算で現在の20万円に相当したが、46年になると4万円程度に下落する。それでも1000円は40万円になり、我が戸塚家は6人家族だったので240万円だ。結構な金額である。当然1人1000円を用意できない世帯も出てくる。そういう世帯には居留民会の町内組織が金を工面して渡したことが「関東軍火工廠史」に記載されている。
次いで郵便貯金通帳や証券類だが、これは一切持って帰れない。あらかじめ当局に預けなければならない。当局とは遼陽日僑善後連絡処(主任・野木善保)である。わが家に民国35年(1945年)6月17日付の「通帳證券其他預り證」がある。多分父が大切にとっておいたのだろう。
実は戦後35年たってわが家が預けた通帳・証券類が預り証通りそのまま返還されたのである。返還が遅れたのは父の帰還先が不明だったためで、姉の小川(旧姓戸塚)和子の遼陽高女の在籍名簿を辿ってやっと送り先が判明したという。差出人は横浜税関監視部管理室返還証券整理室。
「当関では、終戦後外地から引き揚げられた方が、集結地で預けた証券類のうち、無事日本に送り届けられたものを整理し返還しておりますが、この中に戸塚陽太郎様名儀のものが、別紙の〝返還請求書〟に記入したとおり、126件保管しております」「返還手続はこの請求書と誓約書にご記入捺印のうえ、当室へ返送下されば到着次第、郵送致します」(昭和55年1月31日)。
「戸塚陽太郎様。前略、昨日、あなたからの信書と返還請求書を拝見致しました。終戦後、旧満州から引き揚げられた際に、現地の日僑善後連絡処にお預けになられた証券類を34年ぶりで返還することが出来て同封しましたのでご査収下さい。あなたの家族の分は、すべて満州国関係の証券ですので、敗戦で経済的な価値は無くなってしまいましたが、満州在住時代の記念品としてお収め下さい」(2月14日)。
わが家が預けた証券類とはどんなものだったのか。一番多いのは満州国経済部大臣発行の富国債券。第一回発行から第四回まであって、第一回の発行日は康徳9年8月1日付。康徳とは愛新覚羅溥儀が即位した1934年を元年とする満州国の元号である。康徳9年は1942年(昭和17年)となる。債券の額面は1枚5円で、第一回だけで56枚260円分もある。ちなみに42年当時の貨幣価値は100円が現在のほぼ50万円相当とみられるので大変な金額になる。