戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)
次いで第二回富国債券が3枚15円。発行日は康徳9年12月1日。第三回分は康徳10年6月1日発行で42枚210円。第四回分(同10年12月1日発行)は2枚10円しかない。第一回から第四回までの分を足すと103枚515円になる。取得当時の500円は現在の250万円程度と推定される。
この富国債券は第四回で発行を止めたのか、その後も継続したのかは分からない。第四回分の発行は1943年(昭和18年)の暮れだからもう満州国として国債を発行する力がなくなっていたのかも知れない。なお第一回分の償還期限は康徳13年12月1日である。その時点では満州国は存在しなかった。
債券以外では郵便貯金関係で、定額預金証書と普通貯金通帳だ。まず定額預金だが、康徳11年(1944年)3月31日付の「郵政定額儲金證書」が3枚。額面は50円、100円、300円で計450円。この時期になると満州円の価値が下がるがやはり100万円は超えていたと思われる。
貯金通帳(郵政儲金簿)は父の戸塚陽太郎と姉の和子名義の2通。父が28円、姉が20円の残高である。その他では満州生命保険株式会社の生命保険證券が2通。契約日は康徳8年1月30日と同9年3月30日。保険金額はそれぞれ1000円で、保険料は半年毎に26円である。最後に第15回有奨満州儲蓄債券というのが1枚ある。康徳11年12月発行で、額面10円。売出価格7円5角。「この債券は7円5角にて売出し償還の際10円を支払うものなり」という満州興業銀行総裁富田信の記載がある。
祖国への引き揚げは現実のものとなり、日に日に準備が整いつつあった。しかし不幸にして引き揚げの喜びを味わえないまま異国に骨を埋めた人たちがいる。46年の5月のある日、遼陽市内の小学校で非業の死を遂げた15人を偲んで合同慰霊祭が執り行われた。15人の中には少年義勇軍の神田定中隊長、清水隊の清水博二隊長と佐藤利博少尉、中支戦線の生き残り板橋柳子少尉、国府軍に内通したとされる堀内義雄、それに沈着冷静よく5000人を指導とた浜本宗三が含まれる。
しかし林部隊長の自爆命令を命をかけて拒否し後に自決した柳尚雄中尉、シベリア連行に抗議して自殺した工事班の岡田栄吉班長、そしてあの8.25の混乱の中で青酸カリを飲まされたり親の手で絞殺された幼い命、加えて十分な医療を施されることなく疫痢で死んだ妹の悦子、それらは慰霊祭には入れてもらえない。2人の僧侶と民会幹部、遺族ら100人を超える参列者の盛大な読経をどんな思いで聞いたことだろう。