戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)
死者のほかにも一斉引き揚げに加われない人たちがいた。中国残留者(本稿では留用者と呼ぶ)である。留用者として八路軍に同行した人と国府軍同行者とではそれぞれ別の経過を辿っている。まず八路軍から見てみよう。
1945年11月に火工廠を接収した八路軍は、当初この地での工場再建をするつもりだった。しかし、工場の主要設備、機材がソ連に持ち去られたのと、国府軍が迫ってきたこともあって火工廠での運営は諦めざるを得なくなった。仕方なく工場機能を通化に移し、通化での工場再開を図ることにする。46年2月、火工廠に残存する必要機材の搬出、日本人技術者の選抜が始められた。
八路軍から留用者の人選を任された1人に第一工場の徳能典通中尉がいる。徳能は2月中頃のある日、唐戸屯の居留民会事務所を訪れ、以前部下だった技術者の川北辨吉を呼んだ。川北が来ると徳能はつかつかと川北のもとへ歩み寄り手を握って言った。「川北君お願いがあるんだが聞いてくれるか」「わたしでできることなら何でもします」「実は八路軍と同行することになった。私1人では仕様がないので技術者を10人ほど選んで欲しい」。川北は事の以外さに驚き、他の留用者を説得できるだろうかと迷った。
《徳能さんも人選が困難なことは百も承知なればこそわざわざ唐戸屯まで来られたのだ。私ごとき者に最後の希望を託しておられる。昭和17年5月、宇治製造所より黄色火薬工場要員として渡満し、火工廠第一工場の徳能さんの指揮下に入った。その後唐戸屯の第二工場に移った私に、今苦しい胸の内を打ち明け協力を頼んでおられる。何か離れ切れない運命の絆があるのではなかろうか》。
「川北君、僕を信じてくれ」と涙を流して手を握る徳能中尉に「私でよかったらお供します」と川北は固く手を握り返した。川北は徳能と別れ官舎に戻る。妻に事情を話して「おれは徳能中尉についていくが、お前は子どもたちと引き揚げてくれ」と頼んだ。すると妻に「私は川北家に嫁いだ者です。夫と行動を共にするのが妻の役目です。万一貴方が殺されるようなことがあったら私も子どもと一緒にお供します。任された人選をやり遂げてください」と心強く激励された。
民会事務所に戻り、徳能が候補に挙げた飯野久夫、間下守、それから弟の川北恒一に事情を話して留用を依頼した。3人とも以外に簡単に承諾、家族の了解も得た。それから分散して若手の技術者に声をかけ、小林常雄、斉藤今朝蔵、丸山らを納得させた。このようにして八路軍要請の人数が揃ったのである。
このようにして第一次留用者13人(うち女性1人)、第二次留用者8人が決まり、2月24日、通化へ向けて八路軍とともに出発した。しかし、その時点で通化も国府軍の攻撃に晒されており、一行は間島省方面に行き先を変更。4月30日には間島省汪精県石峴に着く。ここには旧ニッケ系東洋バルブ工場があり、八路軍はその敷地に工場を建てて手榴弾製造を開始した。