戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)
間島は朝鮮との国境沿いを通化よりさらに北上した、山の多い地域である。戦時中、金日成率いる間島パルチザンが八路軍と組んで反日ゲリラ戦を展開した。夭折したプロレタリア詩人槇村浩の「間島パルチザンの歌」で日本でも有名だ。遼陽から間島へ。八路軍留用者は長てく辛い道のりを移動させられた。
第一次留用者の1人小林新之助は2月24日午前10時、妻と6歳の長女光子を同伴して一行とともに唐戸屯を八路軍の軍用車に分乗して出発した。雪がちらつく寒い日だった。遼陽で乗った列車は窓ガラスも座席も無残に壊されている。荷物を無蓋車に積み込み、一般中国人でひしめく客車へ。立ったり床に座り込んだりして発車を待つ。鈍い汽笛とともに列車はゴトリと動きだした。
名前は分からないがかなり大きな駅で止まった。給水のようだ。光子が小用に行きたいという。小林は光子を抱えてホームに降りた。用をたして戻ろうとしたら列車が動きだし、ホームを駆けだしたが間に合わない。途方に暮れていると線路の枕木を蹴って5~6人が戻ってきた。小林の妻が、夫と子どもが取り残されたと日本人責任者の徳能典通大尉に訴えて列車を停めてくれたのだという。
その日の夜8時、宮ノ原というところで列車を降り2泊する。3日目に同駅を出て線路の終点のような辺鄙な駅に止まる。積雪を踏んで駅周辺の家へ。ここで再び2泊。朝早くガヤガヤ話し声がする。出発の準備が整ったという。馬車が全部で26台も並んでいた。7時に出発。男たちは不安定な荷物の上だ。
雪が吹雪いてきた。平頂山付近を通る。午後4時頃大きな村落に着いた。電灯のない寒村である。灯油の灯りで夕食を済ませ、オンドルの上に布団を敷いて寝た。翌朝はまだ暗いうちに起き、粥を啜り、6時には出発。そんな日が7日ほど続く。遠くに大きな建物が見えた。大都市のようだ。馬夫は通化市だという。やがて市中の繁華な通りに出る。映画館らしい建物から音楽が流れてきた。
馬車は繁華街を抜けて郊外へ。大きな橋を渡る。二道溝という地名のところに鉄条網で守られた旧日本企業の寮があった。「東辺道開発会社」青山荘の看板。2階建ての立派な施設だ。やっと長い旅が終わった。荷物を2階の広間に運び、雑魚寝ながら久しぶりに服を脱いで足を伸ばして寝る。ガラス障子の隙間風が気になったが疲れていたのですぐ眠りについた。通化では八路軍経営の化学廠に属し、石鹸を製造する仕事にとりかかった。そして4~5日が過ぎた土曜日の夜、その悲劇は起こった。
その夜は週2回の入浴日だった。入浴は男女別に交代で日にちが決められており、この日は男子の番だ。徳能大尉が2歳の長男通孝を抱っこして浴場へ足を踏み入れた。浴場には入浴用の湯船と、湯が冷めた時に足す熱湯の湯船が並んでいる。その夜は運悪く停電で、浴場は3本のローソクの灯りしかない。湯船付近は真っ暗だった。「あーっ」突然徳能大尉の悲鳴。脱衣所で待機していた夫人が驚いて浴室の戸を開けた。夫が手から滑って熱湯に落ちた我が子を助けようと自分も飛びこんだ瞬間だった。