戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)
まだ長く困難な旅が続く。引率の江涛は携帯品を減らすよう指示。荷物の多い板坂、石川は家財を半分ほどに処理せざるをえなかった。
4月5日、通化の町を流れる川のほとりに出た。太子河の上流だという。1人の八路軍兵士が松本たちに対して重い口調で「2月、この川で多くの日本人婦女子が氷の割れ目に投げ込まれて殺されたのだ」と
漏らした。例の通化事件のことだ。八路軍兵士は「虐殺行為をしたのはは朝鮮人義勇軍だ」という。彼は話し終えると軽く目を閉じ、頭を振った。
一行は通化市街を通りぬけて、丘の上に建てられた元満州製鉄通化支社の独身寮青山荘に向かう。そこには第一次留用組の小林、飯野、川北らがいて、暖かく迎えられた。
通化に着いた翌日、松本は吉林、敦化、延吉方面への出張を命じられた。王蓬原軍工部長、蘇文廠長らが、ソ連軍撤退後の旧日本経営の工場を接収するのに同行するためである。日本人は松本1人である。一行は軍用車に分乗して吉林へ急ぐ。その日のうちに吉林に着いて早速工場に向かおうとしたが、ソ連軍の撤退が遅れて4月15日になるという。それまでの数日間を観光名所の北山で待機させられた。
退屈なので吉林の街を歩いた。驚いたことに日本人が自由に商売をしている。生菓子、お寿司などお金さえあれば何でも買える。松本たちの宿舎に朝夕、日本婦人が子どもを背負って手巻きの煙草を売りにきた。日頃どんな暮らしをして生き延びているのだろう。辛い光景だった。
やがてソ連軍が撤退し、満州電気化学工業、満州人造石油などの吉林市内の主要工場の接収が完了した。次は敦化である。ここではバルブ工場の接収にあたった。また旧日本軍飛行場整備工場も視察した。整備工場には14、5人の日本人職工がいたが、それらは敗戦直前に召集された男たちの留守家族で女子どもだけだった。
松本は敦化駅前でボロを着た日本人に会い、彼の住居を訪れた。床ははぎ取られ、畳もなく、土間に板を敷いての生活だという。土間に麻袋にくるまって寝ている子ども。そぱに座り込んだ母親が「この子は栄養失調で今日死ぬか、明日死ぬか分からない。薬もなく、医者もいない。お金もないので食べ物も与えられない。ただ手をこまねいて死を待つだけです」と嘆く。涙もなくすっかり諦めた顔である。
松本は重い気持ちを抱いたまま、蘇文たちに従い次の延吉へ行く。ここでは関東軍補給廠の接収が目的だったが、着いてみると既に壊されていて跡かたもなかった。さらに大同酒精の工場へ向かったがここも破壊されていて無人。壊れた醗酵槽の中で何かの液体がブツブツ泡を立てているのが不気味である。これでは接収は無意味だ。
翌日、曲水というところに大きな鉄工所があると聞いて接収に行く。ここは朝鮮人が管理していて完全に保全されていた。八路軍軍工部一行は、曲水からさらに東盛湧、開山屯、琿春、図們、石峴、汪精などの工場調査と接収に出発したが、松本はここで彼らと別れ、日本人留用者のもとへ帰された。