戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

爆風(81) 18/04/02

明日へのうたより転載

 次に医務関係の八路軍留用者について触れる。八路軍は本渓湖に野戦病院をつくったが医師や看護婦が足りない。東京陵病院からも日本人医務員を連れていくことになった。勝野六郎軍医にも本渓湖行きの要請があったが、老母や妻と3人の子どもがいるのを考慮されて留用を免れることができた。

 八路軍は当初、東京陵病院の勤務員全員の異動を考えていた。軍医の岡野憲介は「それはできない」と八路軍幹部に食らいついた。「病院が空になったら残った5千人の居留民はどうなる。私は進んで参加するからなるべく人数を絞ってほしい」。八路軍の姿勢は意外に好意的で「あなたが積極的に協力してくれるのなら絞れるだけ絞りましょう」と請け負い、人選は日本側に任された。

 留用者は2陣に分けられ、2月11日出発の第1陣は岡野憲介大尉、宗近敬止医学生、看護婦の横井キヨノ、内田照子、中村良子の5人。第2陣は2月19日出発で、生駒一彦医師、林医学生、荷宮文夫歯科医、看護婦の坂典代、須本佐和子、大塚智子、藤野、林田の8人。全員20歳代前半で独身だった。

 第1陣出発の前夜は大病室を使って盛大な送別会が開かれた。その席上岡野は「中共軍に同行する我々にはどんな運命が待っているか、どんな生活なのか全く分からない。前途の不安は大きい。しかしその点は残る諸君も同じだと思う。諸君と再びお会いできるかどうかも分からない。皆さんが一日も早く故郷の土を踏めるよう祈ってやまない」と挨拶。会場のあちこちからすすり泣く声が聞こえた。

 2月11日に東京陵を発った岡野たちはその日のうちに本渓湖近くの大安平というところに着いた。町には日本人の姿はない。空き家の旧日本人官舎に落ち着いて荷をほどく。とたんに岡野は悪寒がし、高熱を発して寝込んでしまった。移動中、酷寒に晒されたための感冒かと思ったが後に結核初期の肋膜炎と判明する。

 この病院は規模の大きい野戦病院で、大連から来た海軍軍医長や日赤の看護婦など多数の日本人が勤務していた。合計50~60人はいたろうか。旧火工廠の一行はすぐ勤務に組み込まれたが、岡野だけは病気治療のため病床に寝かされた。八路軍の態度は親切で、治療も適切で食事も優遇された。

 岡野は熱が下がったある日、点在する病舎を見て回った。患者はほとんどが戦傷者だ。治療は膏薬の塗布と包帯交換が主で、手術が行われている様子はない。X線設備もないようだ。岡野は東京陵病院にほとんど使われていない携帯用X線機器があったのを思い出した。病院には立派なX線設備がある。携帯用はこちらへ譲ってもらう可能性があるのではないか。その旨八路軍担当者に言うと早速東京陵まで使いを出し、了解を取りすぐ取り寄せた。この小型X線機器がこの後大きく役立つことになる。