戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)
前回本ブログで医務留用者は全員独身だと記したが、第二陣の生駒一彦軍医大尉だけは病弱な妻がいた。八路軍留用の命令を受けて生駒は言葉に表せぬ不安と悲しみに落ち込んだ。出発の前夜、妻と寄宿の若い看護婦を前に「おれの命は分からぬが、何卒2人で助け合い無事内地に帰るように」と諭す。3人で手を取り合い、別れの水杯を交わした。
生駒たちは第一陣と違って、診療部隊として八路軍とともに行動することを要求された。遼陽から東へ向かった診療部隊は、移動中も前線から後送される戦傷病者の治療に当たった。傷の手当をする際に、傷口に付着したシラミの多さに驚いた。シラミはやがて医療者にも付き痒さに悩まされた。
一か所に何日か駐屯する時、八路軍兵士は新聞を見せて「中共軍は有利に戦いを進めている。いまに中国全土を解放する暁には、必ず皆を返すからそれまで辛抱してほしい」と語った。しかし事実は負け戦で、夜を徹して山岳地帯を行進せざるを得ない。日本人同行者は足を引きずりながら部隊に従った。
46年暮れ、大石橋とかいう温泉地にしばらく駐屯した。何か月ぶりかにゆったり湯につかり生き延びた思い。夕方6時以降は自由時間を与えられ、生駒たちは麻雀をしてしばし楽しんだ。同行の女性たちは集まって唱歌を合唱した。子ども時代を思い出しながら歌う「赤とんぼ」や「浜辺の歌」がいかにももの悲しく聞こえる。「果たしていつ祖国へ帰れるのか。夢で終わるのか」。皆気持ちは同じだった。
生駒は睡眠中でも急患が出ると呼び出された。患者は注射を大変喜んだ。生駒は「太夫、太夫」と呼ばれて敬われた。年が明けると戦況はますます八路軍に不利になり、鴨緑江近くに追い詰められた。そこも維持できず、ついに北朝鮮へ逃避することになる。日本人も一緒だと言われた。
この時生駒は近くの民家で休息していた。民家の主は生駒に「北朝鮮に入ったら日本へは絶対に帰れない。すぐにここへ国府軍が進撃してくるからしばらくここの床下に隠れていればよい。国府軍が到着したら手をあげて出てきて投降しなさい。それが賢明だ」と説得された。生駒は迷ったが、一緒にいた衛生兵と2人で相談した末民家の主の説に従うことにした。この決断が大変な辛苦を味わうもとになった。
やがて騎馬に乗った国府軍兵士がやってきたので生駒たちは手をあげて床下から出た。国府軍兵士は2人を捕虜扱いにして後方陣地へ移送。中国語で厳しい尋問が行われた。しかし生駒たちはほとんど言葉が分らないし喋れない。そのまま日本でいう営倉にぶち込まれる。それから厳しい捕虜生活が始まった。
雪の降る朝、営庭に木椀を持って整列させられる。柄杓に一杯ずつの高粱粥を椀に入れてもらい、立ったまま食事する。粗末な宿舎は冬でもシラミだらけだ。広い土間にムシロを敷いて捕虜の朝鮮人、日本人、八路軍兵士が一緒に座り、シラミを取ってはつぶす。屈辱的な毎日だ。
生駒は軍医将校だったということで特に取り調べが厳しい。皆の前で幾度もビンタを張られ、半裸体とされ、腹巻に仕舞ったお守りを破り捨てられ、眼鏡も粉々に砕かれた。便所は営庭の一角にあり、銃剣を持った兵士の監視つきで、大小便をさせられる。少しでも排便が遅いと殴られた。