戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)
53年8月14日発信の大塚智子の手紙。《私この度元気で還ってくることができました。日本の皆様方のの長い間の支援の賜と只々感謝いたしております。存じませぬこととて、桜ヶ丘会の皆様へ今日まで一言の帰国のご挨拶もいたさず大変失礼いたしました。何卒ご容赦下さいませ。
(中略)実を申せば、私、当時の病院責任者を大変お怨みいたしておりました。元来私たち4名の者は白百合寮より臨時に手伝いに行っていたもの。その私たちを、看護技術もなきものを、看護婦を要求する中共軍に差し出した責任者に対して、命令とは言え、その不良心を、どんなに痛切に感じたことでしょうか。約束の期限がきても、病院からも、火工廠の部隊からも何の音沙汰もなく、誰も中共軍に交渉してくれませんでした。そのまま帰国の日まで、初めに受けたこの仕打ちは、何かにつけて空しい憤りになったことでしょう。
敗戦という大きな国家的転換時には、個人の生活にも大きな打撃は免れ得ぬものと、既に覚悟はいたしておりましたが、懐かしい東京陵を遠く離れ、異国人ばかりの中で、あまりの激変に耐えかねて、また毎日毎日の強行軍にくたくたになっては泣いて遼陽を恋しがった幾日、そうした時には、決まって最後には病院責任者への悪口になりました。当時の情勢から仕方がなかったと了解しつつも、なお訴え所のない心の鬱々の矢を向けておりました。
帰国後初めて桜ヶ丘会と皆様の活動を知りました。皆様の変わらぬお心に、私は今更、怨んだ自身を恥じております。お陰様で本当に明るい気持ちになりました。重ねて皆様に深く感謝いたします。(中略)
最後にこの間の尊い犠牲者のご冥福とご遺族様の前途ご多幸をお祈りいたします》。
49年7月発信の須本佐和子の手紙。《懐かしい母さん、和史、久美子、和美ちゃん。突然の音信、さぞかしお驚きになったことと思います。佐和子は無事に生きておりますゆえ何卒ご安心下さいませ。お父さまは青島からお帰りになりましたでしょうか。(中略)恐ろしい空襲に家の被害はなかったでしょうか。本当に皆無事でしたか。佐和子も親不孝をして家を飛び出しましたが、その罰が当たって、敗戦後すぐ遼陽の陸軍病院に応援に行きましたところ、そこで八路軍に連れられて4年間、つらい日々を送らせれられました。
毎日行軍行軍で、夜昼ぶっ通しの行軍、兵隊と一緒に寝、弾の飛び交う中の負傷者収容・・・。今では立派な八路の看護婦さんです。この部隊には男女合わせて60名の日本人がいます。初めは何も分からず毎日泣いてばかりおりましたが、現在は調剤の方を中国の人と2人でやっております。思いがけず、今日、他の部隊で働いている日本人の看護婦さんから、内地から手紙が来たと聞いて、早速筆をとりました。5
年間の苦しい涙の生活、如何に書いてよいか、ただ胸が一杯で、何も書けません。自分の元気をお知らせいたしたく、それのみに心が焦って、無茶苦茶に書いています。