戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)
留用者の給与はどうだったのか。国府軍は留用者に対して「生活は保証する」と約束、46年7月分から支給された。賃金レベルは旧日本軍隊時代の階級に応じて決められる。例えば旧大尉であった者は、国府軍の中尉程度の金額が支給される。給与のほかに白米の無料配布が少量ながらあった。
給与額が旧軍隊の階級に基づくため、火工廠当時の賃金体系との矛盾が出た。火工廠当時、軍人でない古参の職制は将校以上の額をとっていた。それが極端に低くされる。当然不公平感が出る。そこで46年10月分から日本人内で賃金の再配分が行われるようになった。生活費に基づく均等化である。
まず日本人全員の給料を国府軍から一括して受領する。そして一定の配分係数により算出した額を各人に支給する。どんな係数が決められたか不明な点もあるが、和泉正一の記憶によると《主人(10)、妻(8)、子供(5)》であったらしい。係数配分の提案者は吹野信平少佐だったといわれている。
年が明けて47年春になると、それまで八路軍に対して優勢だった国府軍が劣勢を伝えられるようになった。それに伴って国府軍紙幣の信用が急落し、八路軍による物資の流通遮断も相まって猛烈なインフレに襲われる。給料も毎月引き上げられたがインフレの速度には追い付かない。給料が出るとすぐ、生活必需品の米、調味料、豚肉、粉ミルク、煙草などを買いに市場へ走った。
木山敏隆の手記。《インフレは激しく、家族数に応じて再配分してもらった給料と現物支給の雑穀は、数日中に生活必需品に交換された。貴重な所持品の物々交換でタンパク質を補充する。日曜日、遼陽市内へ菅野氏、中尾氏らと買い出しに行く。すべてに飢えている我々にとっては、見るもの聞くもの皆楽しいものばかり。米国製品が氾濫している。長年見たこともない洋モク、初めて見るナイロン製品等店頭にずらり並んでいた》。
留用者の中には一般引揚当時肺結核等の重病で、残留せざるを得なかった人たちがいた。そのうち緒方少尉が46年6月28日、小林雅男が同9月20日、南満工専学生の工藤が同9月中旬に相次いで亡くなった。また勝野六郎医師の義理の母勝野せいを始め、1歳の幼女から大人まで10数人がジフテリア、疫痢、肝疾患などで日本の土を踏むことなく大地に骨を埋めた。
勝野六郎医師の手記。《引揚げの数日前、丘の上の墓地を訪れた。親戚の反対を押し切って、満州まで私たち夫婦についてきた時の義母の嬉しそうな顔が思い浮かぶ。満州の地に骨を埋めることになった霊に敬虔の黙祷をし、同時に安らかに眠る人々のために冥福を祈って丘を降りて帰ったが感慨無量だった》。