戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)
火工廠のあった桜ヶ丘から錦西駅までの列車の旅はどんなものであったのか。6月26日に出発した第二大隊の隊長だった松岡道夫と28日出発の印東和の手記に基づいて辿ってみよう。
26日は朝から晴れた穏やかな日だった。東京陵の官舎から引き込み線の太子河無人駅まで2キロ余の道を、一ヶ大隊1000人で歩いた。老人や病人を乗せた素人づくりの手押し車はすぐ車輪が外れる。手早く修理して皆に遅れまいと先を急ぐ。妊婦が顔から汗を流して歯を食いしばりながら歩いている。途中で妊婦を担架に乗せる応急措置をした。それでも遅れる人が続出して隊列は延々と伸びた。
やっと太子河無人駅に着き、10輌の無蓋貨車に分乗する。後部に繋がれた3輌には引揚船乗船までの食料と燃料を積む。見送りの加藤治久大尉ら留用組の人たちと手を振って別れ、13輌の列車はゴトンと動き出した。間もなく遼陽駅到着。野木遼陽居留民会会長をはじめ多くの人々が迎えてくれた。
遼陽からは旧満鉄を奉天に向かう。既に満鉄は国民政府に接収されており、この引揚げ列車も運転手、乗務員は皆中国人である。列車運行の命運はすべてこれら中国人に握られている。運行の便宜を図ってもらうため、乗務員に一定のチップを渡す。そうしないと予期せぬ小駅に停車し、警備員に服装検査と称して金品を巻き上げられると聞いてきたからだ。お蔭で途中停車もなく奉天駅に着いた。
列車は奉天で大連ー新京線と別れ、錦州方面から北京まで行く路線に入る。ここで困ったことが起きた。奉天駅に列車が止まると国府軍の停車場司令官が松岡隊長を呼びつけた。プラットホームに降りると「この列車は規定以上の車両をつないでいるので後部の2輌を切り外す。発車は30分後だ」と言う。彼はそのまま返事も聞かずにどこかへ行ってしまった。後部2輌には食料、燃料の3分の2が積んである。移し替える時間はない。
乗船まで何があるか分からない。後ろ2輌の切り離しは部隊にとって致命傷になる。部隊幹部が緊急招集された。相談の結果、賄賂を使うしか方法がないという結論になった。当時の金で1万円、それをだれが司令官に渡すのか。結局松岡隊長の役目となり、機会をうかがったがなかなか難しい。彼が1人でいるところでなければならない。そのうち全員列車を下りて駅前広場に整列せよとの命令が出た。
司令官が広場の隅に1人で立っている。他の兵士は引揚げ者を整列させるために忙しい。松岡は司令官の傍に寄り、そっとお金を渡す。司令官はお金を確かめてからその場を去った。間もなく全員乗車の命令。列車はすぐ錦州へ向けて動き出した。松岡はほっとして水筒の高粱酒を側近にも注ぎ、苦笑いしながら乾杯した。列車は夜を徹して走る。無蓋貨車は風が強く当たり、病弱者や子どもたちは震え上がった。乗船港葫蘆島に近い錦西駅に着いたのは28日午後3時を過ぎていた。