戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)
引揚船の中の私の記憶としては米の飯のほかに、船中で死んだ人の水葬風景がある。船首なのか船尾なのか、開く方の扉を開けて遺体を海に流した。子どもの遺体だったような気がする。もう一つ、日本への航行中気が狂って海に飛び込んだ人の記憶。もちろん知らない人だが、子ども心にショックを受けた。
この投身事故については同じ船に乗っていた西村操の手記がある。《船が葫蘆島を離れる頃から彼(小川某)は狂った。明日乗船という日、彼の妻が懸命に背負ってきた母が死んだのだ。体が弱く盲目であった。みんな疲れてはいたが山の崖に穴を掘って泣きながら埋めた。彼は放心して喚き、暴れ、ひと時も目を離せなくなった。男たちは代わる代わる彼の見張りにつく。彼の妻は幼児を抱いて泣き続けた。やがて乗船し船が玄界灘にさしかかった。船酔いで長男が苦しむので甲板に出た私の目の前で彼が見事なダイビングをした。彼は抜き手を切ってしばらく泳いだがやがて海面から消えた》。
引揚船に使用されたのは米軍のLST(上陸用舟艇)だが、船長はじめ乗組員はすべて日本人だった。だから乗船とともに既に日本に帰ったような気になった。しかしその日本人乗組員との軋轢を経験した引揚者もいた。少し長くなるが、第一大隊の隊長を務めた加々路仁の手記を次に掲げる。
《船が玄界灘を出た頃である。炊事の使役に出た者から「船の倉庫から米が盗まれた。船長と機関長は引揚者を疑っている」との情報が入った。私は引揚に際してくれぐれも不正がないようにと注意してきた。乗船時の挨拶でも強調したのに、このような事が起こるとは夢想だにしなかった。やっと日本へ帰れるとの気のゆるみか。残念でたまらない。一か年の苦難の体験は何ら得るところがなかったのか。
早速中隊長の集合を命じて協議した。中隊長たちは果たしてそんな悪事を働く人がいるのか、と不審を抱いて真相の究明に動き出した。船員には覚られぬよう部内の調査を始める。しかし調査には時間がかかる。その間船長や機関長に何も言わないでいるわけにもいかない。とりあえず詫びに行くことにした。船長は「引揚者の皆さんはご苦労されてこられ、又内地に帰られても家もない方もあり、生活の不安から少しでも食料を持ち帰りたいのは人情だ。お米の件は何とかするから心配するな」と寛大な態度だった。
内密の調査の結果「米泥棒」の真相が次第に判明してきた。船員の中には不心得者がいて、引揚者用の米をピンハネしておいて博多上陸の際ヤミ屋に流すらしい。今回の事件もその一つで、盗まれたと称する米が倉庫とは別のところに隠してあるという確証も掴んだ。
そのことを直接船長に告発すると事態が難しくなることが予想される。そこで一計を案じた。船長に対して「今日の昼御飯を抜きにしてその分の米を弁償に充てる」と申し出た。昼飯はカレーライスの予定だった。船長は「引揚者に昼飯を食わせなかったら上陸後問題になるからどうか食べてほしい」と出来立てのカレーライスを各人の前に並べさせた。船室にカレーの香りが立ち込める。
20分、30分しても誰もカレーに手を出さない。いままでざわめいていた船内は静まり返る。40分くらいした頃、船長と機関長が私のところへきて「折角おいしいカレーライスを作ったのに冷めてしまう。早く食べるように命令しなさい。米泥棒のことなど気にするな」と言う。「船長の言われることはもっともだが、我々引揚者の中に不心得者がいたのだから連帯責任で現物を返済する」とこちらもがんばった。