戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)
6、47年ぶりに訪れた東京陵
1993年8月、私は47年ぶりに遼陽を訪れる機会を得た。マスコミ文化情報労組会議(MIC)加盟の全印総連が中国総工会と交流していて、北京、瀋陽、西安、上海を巡る11日間のツアーを企画。瀋陽訪問では戸塚さんのいた遼陽・東京陵へも寄るので是非行かないかと誘われて夫婦で参加することにした。
メンバーは8人、8月18日に成田を発ち、20日まで北京滞在。21日夕方国内航空で瀋陽の桃仙空港へ。その夜のホテルは遼寧賓館。このホテルは満州国当時大和ホテルと呼ばれていた。日本が建てた日本人のための豪華ホテルだ。通訳氏によれば、先ごろ映画「戦争と人間」のロケがここて行われたという。
22日は朝8時に遼陽総工会の幹部が迎えに来る。私は、ツアーの事務局長役の川村好正さんを通じて、私の満州居住時の住所、学校、病院、工場、官舎などの位置を記した略図を提出していた。遼陽総工会はかつてこの地で横暴に振舞った日本人の子孫である私のために特別の計らい考えていてくれた。
午前8時30分、私たちを乗せたバスは遼寧賓館を出発して高速道路を遼陽へ向かう。快適な走行だ。道の両側をビール工場や電機工場が現れては去っていく。瀋陽―遼陽間は74キロ、約1時間半で遼陽市内に入った。そこから私が住んでいた東京陵までさらに30分、途中大きな川を渡る。「太子河です」と通訳氏。47年前の3月、浜本宗三らが八路軍によって銃殺されたのがこの河原であった。
東京陵に着いたのが11時少し前、今この地は東京陵経済特別区と呼ばれている。私たちは早速47年前に私が住んでいた官舎周辺を訪ねた。事前に送っておいた私が書いた略図が頼りだ。まず当時の国民学校。全員玉砕のために住民が集まり念仏を唱えた場所だ。今は中学校だというが、外装は変わっても建物の骨格はそのまま。45歳だという校長さんが私を出迎えて記念写真に納まってくれた。
学校からなだらかな吉野山が見えた。中腹に日本が建てた吉野神社が今でも取り壊されずに残っている。あそこで柳中尉が拳銃自殺をしたのだ。病院も私が書いた略図通りの場所に建っていた。もちろん改装はされているのだろうが、外観は私の記憶通りだ。ここで妹の悦子が手当てもしてもらえず疫痢で死んだのだ。かつて官舎が並んでいた地域に移動する。なだらかな傾斜地に、レンガ造りの建物がそのまま残っていた。
私の住んでいた朝日町の方向へ向かったが「ここがそうだ」という断定は難しい。もっと整然とした家並みだと思っていたが、家の配置はさまざまだ。今は工場従業員の家族が住んでいる。その一軒に入らせてもらった。1DKである。私たちが住んでいた家を間仕切りして2世帯で使っているようだ。土足でなく、靴を脱いで座敷に上がるという、日本式が守られていることに嬉しくなった。