戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)
「『戦争責任言われつらい』」「侍従記録 晩年の昭和天皇吐露」(23日付『毎日』1面)。「昭和天皇晩年の苦悩」「侍従日記『細く長く生きても』」(同社会面)。「昭和天皇が85歳だった1987年(昭和62年)4月に、戦争責任を巡る苦悩を漏らしたと元侍従の故小林忍氏の日記に記されていることが明らかになった」。共同通信が入手した小林元従事の日記が公表された。
昭和史に詳しい半藤一利氏、保坂正康氏も「すごい言葉だ」「事実虚飾なく」と天皇の言葉を持ち上げている。『毎日』がことさら強調するのは天皇の次の言葉だ。「仕事を楽にして細く長く生きても仕方がない。辛いことをみたりきいたりすることが多くなるばかり。兄弟など近親者の不幸にあい、戦争責任のことをいわれる」。『毎日』は「昭和天皇が晩年まで戦争責任について気にかけていた」証拠と見る。
ほんとにそうだろうか。「戦争責任を気にかける」というなら、あの15年戦争への反省がその前提になければならない。ところがこの人には「反省」という認識がない。小林日記の1975年5月13日付には「『天皇外交』伊達宗克著につき、戦争のつぐないとして平和外交を推進しているかの如く広告しているが、そのような内容ならそれはおかしい。戦前も平和を念願しての外交だったのだからと仰せあり」との記述がある。天皇はあの15年戦争の時代に自分がやったことは平和外交だと思っているのだ。
彼の頭の中には戦争をするのは平和のためだという思想が死ぬまでこびりついていたのだ。「細く長く生きても」ともっともらしい言い方をしているが、アジア人2000万、日本人310万の戦争犠牲者は「細く長く生きたい」と願っても生きられなかったのだ。あなたは87歳まで長生きしたけどね。
80年5月、華国鋒中国首相が来日し、天皇が引見することになった。天皇は「日中戦争は遺憾であった」と言いたかったが、右翼の反発を気にする宮内庁長官らの意見を入れて取りやめた。小林日記はこれを天皇の「戦争の反省」の証拠のようにいうが果たしてそうだろうか。戦争中の東条英機らの戦争拡大政策に盲従したのと同じで、単に右翼と側近の意に反することが怖かっただけではないか。
来年は平成天皇が退位し、新しい天皇の時代が始まる。ここに至って昭和天皇が平和主義者であったかのような歴史の偽造だけは何としても止めてもらいたい。