戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)
フリージャーナリストの安田純平さんが40ヶ月ぶりにシリアの反体制武装勢力から解放された。とても嬉しいニュースだが、戦争とメディアの役割ということではいろいろ考えさせられる。ベトナム戦争でも多くの記者が亡くなった。日本の仕掛けた15年戦争ではどうだったのだろうか。毎日新聞社史「毎日の3世紀」によれば、満州事変以来太平洋戦争敗北までの殉職社員は76人にのぼったという。
「陸軍は南方作戦が目的を達成したとして1942(昭和17)年10月、朝日・ジャワ、東日(大毎)・フィリッピン、ビルマ・読売などの分担で現地で新聞を発行するよう命じた。海軍もまた同年12月、セレベス・東日(大毎)、朝日・ボルネオ、読売・セラムと発行地域を決めた。各社とも続々と南方地域に要員を送り込み、毎日はマニラ新聞社、セレベス新聞社、南洋新聞社(パラオ諸島コロール)、海南新聞社、台湾新報社などを経営した」。新聞の南方進出は軍の命令だったのだ。
米軍がマニラのリンガエン湾に上陸したのが45年1月9日、マニラ新聞社に派遣されていた毎日社員は一部北へ逃げたがまだ多数の残留組が新聞発行を続けた。しかし米軍戦車が迫りくるなかで、同31日に邦字紙が、2月3日に英字紙が発行を断念、輪転機が止まった。社員は日本軍と逃避行を共にしたが「敵の銃弾、ゲリラの刀、マラリアで次々と倒れた」。
「戦後の調査で、マニラ新聞などフィリッピン関係者で殉職と認定されたのは47人に上った。中には8月15日の終戦後も山中の逃避行を続け、犠牲となった者もいた。新聞関係者にこれほど多数の殉職者の出たのは、世界的にも例がないと言われた」。
社史・資料編の殉職者名簿は、「中国・成都で排日の群衆に襲われ死亡(36年8月)」「中国河北省で銃弾を胸に受け戦死(37年9月)」「ノモンハン事件で特派され、満蒙国境の最前線で空襲を受け戦病死(39年7月)」「中国、広東省で報道班員として従軍中戦病死(40年9月)」「陸軍報道班員としてシンガポール・ブキテマ北方高地の激戦に従軍、砲弾の破片を受け戦死(42年2月)」「ジャワ島上陸作戦でバタビア沖海戦を取材中、乗船していた輸送船が砲撃を受け戦死(42年3月)」「ルソン島でゲリラに襲われ戦死(45年5月)」等々具体的に死亡状況を記している。
こんなに犠牲者を出しながら当時の新聞は、戦場の真実を読者に届けられなかった。帰国した安田さんはシリア内戦についてどんな真実を語るのだろう。命をかけた取材の成果をぜひ聞いてみたいものだ。