戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)
朝ドラ「まんぷく」に出てくるハンコの話。敗戦直後、焼け出された人々には身分を証明するものが何もない。そこへ目を付けた主人公がハンコをつくって繁盛する。あの頃のハンコは確かに重みがあった。今よりハンコの地位が高かった。朝飯を食いながら女房と身分証明の今昔についてよもやま話をした。
身分証明というとまず頭に浮かぶのが水戸黄門の「この印籠が目に入らんか」である。江戸時代はそのものずばりの「身分帖」というのがあった。身分の規定が社会の規律の基本だった。侍は不満を抱く民衆に対して「町人(百姓)の身分で失礼であろうぞ」と切り捨て御免にできた。
江戸時代の「身分」と現在のそれは意味合いが違うが、それでも身分証明は至るところで必要になる。外国旅行でパスポートは必需品。唯一の身分証明書だ。そのパスポートを取得するには日本籍があるとか住民登録とかの証明が要る。ただし申請にはハンコは使わない。サインで済む。
昔貯金通帳とハンコというのは一対のもので、金の出し入れには届出印が絶対必要だった。今はキャッシュカードで簡単にできる。簡単になったのは数列のおかげである。たった4桁の数字でカードの所有者が特定される。4桁の数字の組み合わせは何通りあるんだろう。高校の数学で習った気がするが忘れた。住基カードやマイナンバーなどもそうだが、身分証明と数字の組み合わせというのは相性がいいらしい。
役所の届け出や売買契約の身分証明に運転免許証が使われることが多い。おれはもともと持っていないが、運転しなくなっても身分証明のために免許更新をする人もいるようだ。おれは代わりにパスポートのコピーや後期高齢者保険証を出すことにしているが、保険証は写真がないからと断られることがある。
映画館のシニア料金は本人の申し出で十分だが、浅草演芸ホールへ行った時身分を証明できなくて一般料金を取られたことがある。都立の美術館では窓口で生年月日を言えば65歳以上と認めてくれる。
パソコンも何かと身分証明が必要になる。アカウント、ログイン、キーワード、メールアドレス。基本的にアルファベットと数字の組み合わせである。あの無機的な数列でおれの身分が証明されるのかと思うと、何か人格が軽くなったような気もする。数字よりハンコの方が重みがあったのかな。