戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

元「慰安婦」キム・ボクトンさんの生涯 19/01/31

明日へのうたより転載

 1月28日、「慰安婦」被害を証言した金福童(キム・ボクトン)さんが93歳で亡くなった。30日付の『ハンギョレ新聞』に「戦時性暴力生存者であり平和活動家であったキム・ボクトンさんの人生」と題してかなり長い文章が載っている。凄まじい一生だ。おれ流に要約してみた。

 キムさんは1926年、慶尚南道梁山で生まれた。41年のある日、黄色い服を着た日本人に「軍服をつくる工場で3年だけ働け。応じなければ家族は追放、財産も奪う」と脅された。15歳のキムさんは「母さん、私が行くよ」と承知。台湾経由で中国広東の日本軍部隊に連れて行かれた。

 そこで朝から夜まで性奴隷の生活を強いられる。場所も日本軍の移動に従って香港、マレーシア、スマトラ、インドネシア、ジャワ、バンコク、シンガポールと8年間転々。キムさんは23歳で解放され、故郷の母親のもとに帰った(8年間というと計算上49年ということになり、4年前に戦争は終わっていたはず。その辺の事情はこの記事では分からない)。結婚もできず、釜山で商売しながら生きてきた。

 92年、66歳のキムさんは自分が「日本軍慰安婦」だったことを公表し、「自分のような戦時性暴力被害者が二度と生まれないように」と訴えた。初めは「慰安婦だったと宣伝しているに過ぎない」などと冷たい視線にさらされたが、次第に国際社会に関心が広がり、キムさんは平和運動家として成長を遂げる。毎週水曜日に日本大使館前で行われている「名誉と人権を回復する」ための行動の先頭に立った。

 2015年、89歳のキムさんはこつこつ貯めた5000万ウォンを「ナビ基金」に寄付。「ナビ基金」はこの金で、紛争地域の被害児童支援と平和活動家の養成を目的とした「キムボクトン奨学基金」を設立した。去年、92歳の高齢をおして「和解・癒し財団」の解散を求める1人デモを敢行した。

 生前キムさんはこんなことを言ったという。「いや、私が死んだら、火葬して、さらさらと撒いてくれといったんだ。面倒を見る人もいないのに、墓を作る必要はない。それであの山にひらひらと・・・水に撒くと水の霊になるというから、山に撒いてもらって、蝶になって世界中を飛び回りたいな(笑い)」。
キムさんは今、どの空を飛んでいるのだろう。とハンギョレ新聞は記事を締める。

 2月2日から2泊3日で孫たちと八ヶ岳の麓で雪遊びしてくる。