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■ミーイズムの日 06/09/01
満州事変(昭和6年)と満州国、リットン調査団、満州への国策移 民、モガ・モボ、上海事変(昭和7...
前坂さんの本を読みたい
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前坂 俊之/静岡県立大学国際関係学部教授/満州事変前夜、日中戦争、太平洋戦争を通してみる戦時を目前に変質していった新聞メディア―権力に操作される新聞の姿、先導する「読売」の今の役割ー(7)田母神前空幕長の「侵略国家は濡れ衣」発言はどこが間違っているか―張作霖爆殺事件を考える― (上)08/12/18
権力に操作される新聞の姿
先導する「読売」の今の役割―(第7回)
前坂俊之(静岡県立大学国際関係学部教授)
田母神前空幕長の「侵略国家は濡れ衣」発言はどこが間違っているか
今回は連載内容とは若干離れるかとも思いますが、田母神俊雄・自衛隊前空幕長の「日本が侵略国家であったというのは濡れ衣である」の発言について考えてみたいと思います。田母神前空幕長の一連の発言をめぐる政府、メディア、政治家の対応、処分をみていて、私はその余りのレベルの低さ、インテリジェンスの欠如、無責任体制にはあきれ果ててしまいました。
問題点はいろいろありますが、
① 田母神前空幕長という自衛隊トップの歴史事実の認識のほとんどが間違っていることです。彼のいうように『侵略国家』でないとすると、張作霖爆殺事件、満洲事変は日本軍の謀略、先制攻撃によって起こされた侵略的な軍事行動ではなかったのか。
② 田母神前空幕長はわれわれ1億3,000万人の日本人の生命と日本国の安全と防衛の責任を担う自衛隊のトップです。何でも左派や、その一派の陰謀によるものとする古い、右翼的な歴史観に偏ることなく、歴史的な事実を感情を排して、なるべく客観公正・公平に判断することが必要です。そうでなければ、その判断によって戦争を引き起こすポストに田母神前空幕長は座っているのです。知り合いの自衛隊員は「航空自衛隊なので地に足がついていないのよ」と感想を漏らしていましたが、自分の立場を忘れてはいけません。隊員たちにも半端なイデオロギーを注入すべきではないのです。
③ このためにも、自衛隊トップとして正確な情報分析能力が求められますが、その歴史情報分析能力は、このお粗末なレポートによって、ゼロ点以下、落第点なのです。事実を裏付けるデータ、資料、歴史的な証言、参考資料・文献などは一切明示されておらず、その無知ぶりは読むのも恥ずかしい限りです。
④ しかも、自分の行動が、これだけ大きな反響を呼ぶとは思っても見なかったということですから、あきれ果てます。自己省察能力ゼロです。空幕長は一私人ではありません。昔で言えば日本の軍のトップ、大将、戦争指揮者です。公の前で私的な意見を述べることは戦前ならば軍機違反、今は自衛隊法に触れることにもなりかねません。
⑤ そのあたりのセキュリティー感覚がゼロです。また、シビリアンコントロールとはなにか、戦前の軍人勅諭の<軍人は政治に関与すべからず>も知ってか知らずか、世界のメディアの前で、無邪気に見解を述べている姿は海外の軍関係者、情報機関はポーカーフェイスで態度には一切示さず、心の中で、日本は何と平和ボケ、インテリジェンスの欠如か! と笑っていることでしょう。隣国だけではなく米国、世界からの日本への信頼を失墜させた重大事件なのです。
⑥ さらに、これ以上に気になったのは田母神前空幕長発言のどこに問題があったのかを国会の質問で政治家も十分追及できず、説明を聞くだけ、メディアも歴史認識のどこが間違っているのかを、追及できず、間違った発言を乗せるだけの御用聞きメディアに終始していたことでした。政治家もメディアも田母神前空幕長同様に、現代史への無知、歴史検証の能力の低下、歴史健忘症をさらしたのです。
グローバリズムの大波の中で、難破船となった日本丸のリーダーやメディアがこうした歴史センサーしか持ち合わせていないのですから、衝突を避けることは容易ではありません。
国の対立、戦争についておさらいをしてみたいと思います。
日本が昭和に入る直前の1926(大正15)年7月、中国では国民革命軍(蒋介石)が北方の軍閥勢力(張作霖ら)を倒して、中国の国家統一を目ざす北伐の動きが始まりました。
日本では、1927(昭和2)年4月、若槻礼次郎内閣が金融恐慌で倒れると、政友会の田中義一内閣が成立しました。田中は外相を兼任し、満蒙強硬派の森 恪(もり かく)を外務政務次官にすえて、対中外交を「幣原外交」から転換し、第一次世界大戦後の恐慌から脱出するため、満蒙権益の拡大に舵を切ったのです。
その後、国民革命軍(蒋介石、閻錫山らの三軍)は北京に向かって進撃を続けて、張作霖の奉天軍がいる北京を包囲し決戦近しの状況となりました。蒋介石らの兵力は約50万で、張の奉天軍は兵力約30万。張作霖が敗れて、満州に敗退すれば、戦乱が満蒙に及び、日本権益が侵害される恐れが出てきたのです。
この危機をめぐって田中首相と陸軍や森烙らの対応が割れました。陸軍、森らは満州の邦人の生命、財産を守るため、「関東軍を本拠地の旅順から、奉天(現・藩陽)に出動させて治安を維持し、さらに山海関(満州・北支の境界地帯)に出動させ、両軍を阻止する」との奉勅命令(天皇の裁可を得た中央最高統帥命令)を出すように白川義則陸相や田中首相に迫ったのです。
関東軍は山海関で両軍を武装解除してしまえば、あとの弱小の軍閥はどうにでもなり、満州全域を掌中におさめることができる、との腹づもりだったのです。
田中首相はやむを得ず奉天までの進出は認めましたが、「蒋・張両軍には厳正中立を堅持する」方針を示し、「内外に、政治的野心がないこと」を鮮明にしたのです。山東出兵で排日運動が燃えさかった直後であり、中国側に配慮した措置だったが、関東軍の奉天進出は米国からきびしい抗議を受けたため、田中首相は思いとどまったのです。
満州を戦乱に巻き込まないため、田中は蒋介石から「(満州には)侵攻しない」との言質をとり、張作霖にはいったん北京を離れて、東三省(中国東北部)で再起を期すように強く働きかけます。田中は中国を蒋介石、満州を張作霖に二分割して平和共存させて、張作霖をコントロールしながら、満州の権益の増大、満鉄、満蒙鉄道を発展させる構想だったのです。
5月6日、政府は、①蒋介石軍の山海関以北への進出を阻止、②南北両軍とも武装のままで満州に進入させぬ、という方針を中国側に通告、関東軍にも指示した。蒋介石は追撃しないことを約束、張作霖もしぶしぶ日本側の帰順圧力を受け入れました。
森は「奉勅命令で、関東軍を山海関に出動させよ」と裁下を求めてきたが、田中首相は5月31日に「勅令は出さん。出兵延期」と裁決した。これには関東軍は猛反発した。満州国建国を独自に計画していた関東軍にとって、これまでさんざん手を焼いてきた張作霖の満州復帰はまったく邪魔な存在以外の何ものでもなかったのです。(つづく)